前のエントリでふれていた大西巨人についての研究ノートを掲載した勤務先の大学院紀要が発行され、リポジトリでも公開されています。
ずっと感じていた「神聖喜劇」以外の小説の物足りなさについて説明できたのは良かった。おもしろくないわけではないんですがね。
現在は同じエントリで書いていた坂口安吾・太宰治・浜尾四郎についての論文を進めているところです。
ミステリの持つナンセンスさについて書こうと思っていたのからはいくらかずれたが、それでもあるナンセンスな制度や拘泥について論じることになりそうですね。
2026年04月29日
2025年12月31日
「食卓末席組」から「姦通」へ
10月17日のエントリー で書いた2件のその後について報告して2025年を閉めよう。
後の方、大西巨人の「食卓末席組」についてのノートは既に入稿し、印刷所に行っているはずなので、年明けにも校正作業という流れになってます。
予定通りに書けたのですが、大西巨人に限らず多くの戦後作家についても非インテリの登場人物をどう登場させたかが問題にできるのではないか、と閉じてるので、おそらく今後そういうことをするのでしょう。
しかし、その前にミステリーについての論文を書くのです。
そちらは、大学の演習で太宰治『晩年』をテキストにして、ひさびさにじっくり読んでいろいろ気づいたことがあり、その結果いくらか軌道修正。やはり太宰治が村尾四郎を読んでいたらしい、ということがわかったのが大きい。両者に共通する「姦通」を恐れ、嫌悪する男性のモチーフ、つまり女性を所有物と見なし、しかしそれを独占することに失敗した(と思いこんでいる)男性のふるまいを描く言説空間の共有ということで論じてみたい。それでいえば、坂口安吾の「風博士」でも妻を蛸博士に奪われたことへの怒りが風博士の遺書では語られているのだ。学問上の対立だけでも十分なのに。
ミステリーとファルス・ナンセンスというモチーフは弱まることになるが、考えてみれば「姦通罪」というものがあったこと自体がナンセンスだし(周知のとおり坂口安吾も未亡人の貞操などばからしい、と戦後言ってますな)、妻を独占したつもりで貞操に振り回される夫というのも十分ファルス的な道化と言える。その疑いが彼らを犯罪に踏み込ませるわけだが、そもそも犯人というのが割りに合わないナンセンスと背中合わせの存在と言えるかもしれない。
というようなことを考えながら現在準備中です。

注が期待したほどじゃなかったな。まあ自分で調べろって話ですが。
後の方、大西巨人の「食卓末席組」についてのノートは既に入稿し、印刷所に行っているはずなので、年明けにも校正作業という流れになってます。
予定通りに書けたのですが、大西巨人に限らず多くの戦後作家についても非インテリの登場人物をどう登場させたかが問題にできるのではないか、と閉じてるので、おそらく今後そういうことをするのでしょう。
しかし、その前にミステリーについての論文を書くのです。
そちらは、大学の演習で太宰治『晩年』をテキストにして、ひさびさにじっくり読んでいろいろ気づいたことがあり、その結果いくらか軌道修正。やはり太宰治が村尾四郎を読んでいたらしい、ということがわかったのが大きい。両者に共通する「姦通」を恐れ、嫌悪する男性のモチーフ、つまり女性を所有物と見なし、しかしそれを独占することに失敗した(と思いこんでいる)男性のふるまいを描く言説空間の共有ということで論じてみたい。それでいえば、坂口安吾の「風博士」でも妻を蛸博士に奪われたことへの怒りが風博士の遺書では語られているのだ。学問上の対立だけでも十分なのに。
ミステリーとファルス・ナンセンスというモチーフは弱まることになるが、考えてみれば「姦通罪」というものがあったこと自体がナンセンスだし(周知のとおり坂口安吾も未亡人の貞操などばからしい、と戦後言ってますな)、妻を独占したつもりで貞操に振り回される夫というのも十分ファルス的な道化と言える。その疑いが彼らを犯罪に踏み込ませるわけだが、そもそも犯人というのが割りに合わないナンセンスと背中合わせの存在と言えるかもしれない。
というようなことを考えながら現在準備中です。
注が期待したほどじゃなかったな。まあ自分で調べろって話ですが。
2025年10月17日
論理的すぎることのナンセンスさ
前のエントリーから1年半以上経ってしまったが、20世紀はじめの話はお休みして、1930年代から戦後にかけて、二つのことに取りかかっていた。
一つは坂口安吾研究会の「坂口安吾とミステリ再考」という特集を企画したりしていた。無事終わりましたが、企画趣旨文とかプログラムとかはこちらです。
論理的であろうとしすぎたり、名探偵と時にやりすぎなまでのすごいトリックを考える犯人が対決したりする、ミステリ・探偵小説というジャンルがナンセンスなファルスにつながってしまう、という話はさらに膨らませそうなので、特集が終わってからもあれこれ考えたり調べたりしている。こちらは来年後半か再来年に形にできるといいでしょう。
もう一つは、大西巨人の過剰な論理性を相対化する存在について考えていた。これは戦後文学の観念性という、いくらか主語が大きい話とも関連してくるので、今のところは短めにノートにまとめた。こちらはあまり時間を置かずに紹介することになるでしょう。
理屈が行き過ぎると、つい笑ってしまう、というのは例えば赤瀬川原平などにも見られるモチーフですね。ハイレッドセンター、宮武外骨、超芸術トマソン、みんなそうです。ずっと考えていると、昔好きだったものに戻るのかもしれません。
一つは坂口安吾研究会の「坂口安吾とミステリ再考」という特集を企画したりしていた。無事終わりましたが、企画趣旨文とかプログラムとかはこちらです。
論理的であろうとしすぎたり、名探偵と時にやりすぎなまでのすごいトリックを考える犯人が対決したりする、ミステリ・探偵小説というジャンルがナンセンスなファルスにつながってしまう、という話はさらに膨らませそうなので、特集が終わってからもあれこれ考えたり調べたりしている。こちらは来年後半か再来年に形にできるといいでしょう。
もう一つは、大西巨人の過剰な論理性を相対化する存在について考えていた。これは戦後文学の観念性という、いくらか主語が大きい話とも関連してくるので、今のところは短めにノートにまとめた。こちらはあまり時間を置かずに紹介することになるでしょう。
理屈が行き過ぎると、つい笑ってしまう、というのは例えば赤瀬川原平などにも見られるモチーフですね。ハイレッドセンター、宮武外骨、超芸術トマソン、みんなそうです。ずっと考えていると、昔好きだったものに戻るのかもしれません。
2024年03月25日
大江健三郎「ピンチランナー調書」にかかわる論文と関連する既発表論文
1年5ヶ月ぶりの更新。
その間に大江健三郎が亡くなったりしたわけですが、それとは関係なく大学院の授業では大江健三郎「ピンチランナー調書」を取り上げた。
いわゆる「純文学」ジャンルにおけるSF・ファンタジー的な想像力の導入ということで、三島由紀夫「美しい星」や村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」なども扱ったのだが、その結果前者を「ピンチランナー調書」の先行者・パロディ元と捉えるアイディアを得たのだった。
論文は既に勤務先のリポジトリで公開されているので、詳細はそちらに譲るとして(〈クワバラのテクスト〉にリンクをはっている。ページの一番下です)、その中で言及している既発表論文へのリンクを下に並べておく。
こちらも勤務先のリポジトリ。
大江健三郎『燃えあがる緑の木』について―1989〜90年の天皇代替わり儀式との関連から―
この論文と次の論文は『昭和文学研究』第88集(2024年3月)の高橋由貴「研究動向 大江健三郎」で紹介されましたが、『述』に掲載されたものは今では紙の雑紙は入手が難しく、また電子化もされていないので、〈クワバラのテクスト〉で公開しています。
大江健三郎と自衛隊、その持続性
この論文、実は「洪水はわが魂に及び」についての言及(三島由紀夫との関係を指摘)があるのですが、これまできちんと言及・批判されたことがないようで残念です。
もう一つ、『述』掲載のもの。
大江健三郎と原子力、そして天皇制
こちらでは「ピンチランナー調書」「セヴンティーン」「燃えあがる緑の木」などに言及しています。
次はまた「小説」について、20世紀に入る前後のあたりのものから考えたいと準備していますが、こちらについてはまた1年後になるのか、軽く更新したりするのか、ひとまず未定です。
その間に大江健三郎が亡くなったりしたわけですが、それとは関係なく大学院の授業では大江健三郎「ピンチランナー調書」を取り上げた。
いわゆる「純文学」ジャンルにおけるSF・ファンタジー的な想像力の導入ということで、三島由紀夫「美しい星」や村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」なども扱ったのだが、その結果前者を「ピンチランナー調書」の先行者・パロディ元と捉えるアイディアを得たのだった。
論文は既に勤務先のリポジトリで公開されているので、詳細はそちらに譲るとして(〈クワバラのテクスト〉にリンクをはっている。ページの一番下です)、その中で言及している既発表論文へのリンクを下に並べておく。
こちらも勤務先のリポジトリ。
大江健三郎『燃えあがる緑の木』について―1989〜90年の天皇代替わり儀式との関連から―
この論文と次の論文は『昭和文学研究』第88集(2024年3月)の高橋由貴「研究動向 大江健三郎」で紹介されましたが、『述』に掲載されたものは今では紙の雑紙は入手が難しく、また電子化もされていないので、〈クワバラのテクスト〉で公開しています。
大江健三郎と自衛隊、その持続性
この論文、実は「洪水はわが魂に及び」についての言及(三島由紀夫との関係を指摘)があるのですが、これまできちんと言及・批判されたことがないようで残念です。
もう一つ、『述』掲載のもの。
大江健三郎と原子力、そして天皇制
こちらでは「ピンチランナー調書」「セヴンティーン」「燃えあがる緑の木」などに言及しています。
次はまた「小説」について、20世紀に入る前後のあたりのものから考えたいと準備していますが、こちらについてはまた1年後になるのか、軽く更新したりするのか、ひとまず未定です。
2022年10月29日
「太宰治「女の決闘」の先行テクストおよびそこから発展する問題について」公開
事情により前のエントリーで書いていた村井弦斎「日の出島」等についてはいったん中断して、太宰治「女の決闘」についての研究ノートを書いた。リポジトリはこちら。
太宰治バージョンの「女の決闘」については教科書として作った『小説を読むための、小説を書くための小説集』(ひつじ書房)で取り上げているのだが、このノートの中で書いたように十分に論じきれていないところがあったので新たに気がついたことを書いた。

それだけではノートとしても成立しないので、「女の決闘」の「女学生」の心内描写や、太宰治の〈女性一人称〉〈女語り〉と呼ばれるものに文体としてどういう特性があるのかをテキストマイニング・テキストアナリティクスによって分析したらどうなるのだろうか、という見通しを書いてみた。
アイディアとしては坂口安吾の「白痴」の男性一人称と「青鬼に褌を洗う女」の女性一人称はどのくらい違っているのか、大江健三郎の作家〈O〉・〈Kちゃん〉が書いた文体と、彼の娘や親戚が書いたとされる文体とはどのように異なっているのか、ことにも分析を広げられるだろう。
とはいえ、コンピュータを使った文体分析についてはまだまだ学ばなければならないところが多い。入門書としては『テキスト計量の最前線』ひつじ書房)がいいのだが、これは具体的な分析方法まではふれていないので、この本で参照されているものを読んでいかなくてはならないのだった(参考文献集としても使えるわけです)。

19世紀末から20世紀初頭の小説を読むのと、コンピュータによってテキストを処理していけるようになるのがこれからの並行したテーマとなる予定です。
太宰治バージョンの「女の決闘」については教科書として作った『小説を読むための、小説を書くための小説集』(ひつじ書房)で取り上げているのだが、このノートの中で書いたように十分に論じきれていないところがあったので新たに気がついたことを書いた。
それだけではノートとしても成立しないので、「女の決闘」の「女学生」の心内描写や、太宰治の〈女性一人称〉〈女語り〉と呼ばれるものに文体としてどういう特性があるのかをテキストマイニング・テキストアナリティクスによって分析したらどうなるのだろうか、という見通しを書いてみた。
アイディアとしては坂口安吾の「白痴」の男性一人称と「青鬼に褌を洗う女」の女性一人称はどのくらい違っているのか、大江健三郎の作家〈O〉・〈Kちゃん〉が書いた文体と、彼の娘や親戚が書いたとされる文体とはどのように異なっているのか、ことにも分析を広げられるだろう。
とはいえ、コンピュータを使った文体分析についてはまだまだ学ばなければならないところが多い。入門書としては『テキスト計量の最前線』ひつじ書房)がいいのだが、これは具体的な分析方法まではふれていないので、この本で参照されているものを読んでいかなくてはならないのだった(参考文献集としても使えるわけです)。
19世紀末から20世紀初頭の小説を読むのと、コンピュータによってテキストを処理していけるようになるのがこれからの並行したテーマとなる予定です。
2022年03月31日
矢野龍渓周辺の小説について
半年以上更新していなかったのだが、その間「浮城物語」論争の矢野龍渓の側に近い立場から書かれた小説を読んでいた。
前に書いたのが、石橋忍月・内田魯庵についてだったので、反対側に回ってみた訳である。
そのあたり、今は「国立国会図書館デジタルコレクション」があるので、矢野龍渓「新社会」や「不必要」、堺枯川「百年後の新社会」や「理想郷」、それに村井絃斎「日の出島」などが簡単に読めてしまうことも関わっている。
今は「日の出島」の3分の1強くらいを読んでいるところである。
これらの小説についての先行文献はいろいろあるのだが、掲載されていた新聞メディアとの関連や、そこで描かれている社会像・社会思想、また内田魯庵・石橋忍月が担っている(とそれらの文献で判断されている)「文壇」に対する批判が読み取られたりしてきた。
もう少し小説の書き方について、つまり方法という面から考えられないか、というのが問題意識なのだが、もう少し時間がかかりそうである。
前に書いたのが、石橋忍月・内田魯庵についてだったので、反対側に回ってみた訳である。
そのあたり、今は「国立国会図書館デジタルコレクション」があるので、矢野龍渓「新社会」や「不必要」、堺枯川「百年後の新社会」や「理想郷」、それに村井絃斎「日の出島」などが簡単に読めてしまうことも関わっている。
今は「日の出島」の3分の1強くらいを読んでいるところである。
これらの小説についての先行文献はいろいろあるのだが、掲載されていた新聞メディアとの関連や、そこで描かれている社会像・社会思想、また内田魯庵・石橋忍月が担っている(とそれらの文献で判断されている)「文壇」に対する批判が読み取られたりしてきた。
もう少し小説の書き方について、つまり方法という面から考えられないか、というのが問題意識なのだが、もう少し時間がかかりそうである。
2021年09月22日
「「浮城物語」論争以前の内田魯庵・石橋忍月の小説・評論について」 電子版公開
2021年09月03日
「「浮城物語」論争以前の内田魯庵・石橋忍月の小説・評論について」 掲載雑誌発行
前のエントリーで書いていた論文が掲載されたので、〈クワバラの研究〉の「クワバラのテクスト」のページに追加しておいた。
リポジトリにはまだ掲載されていないので、掲載され次第またここに書きます。
なお、以前は載っていなかった論文がレポジトリ化されていたので、自前のPDFからそちらへのリンクに切り替えた。
とはいえ、見た目ではわからないですね。いずれも『渾沌』や『文学・芸術・文化』に掲載されたものなので試してみてください。
リポジトリにはまだ掲載されていないので、掲載され次第またここに書きます。
なお、以前は載っていなかった論文がレポジトリ化されていたので、自前のPDFからそちらへのリンクに切り替えた。
とはいえ、見た目ではわからないですね。いずれも『渾沌』や『文学・芸術・文化』に掲載されたものなので試してみてください。
2021年07月01日
「「浮城物語」論争以前の内田魯庵・石橋忍月の小説・評論について」脱稿
半年ぶりの更新。
その間に、前のエントリーで「新ネタ(と言えども「浮城物語」論争がらみなので、古ネタでもある)」と書いていた論文を完成させ、現在初校が終わったところ。
以前から石橋忍月や内田魯庵が書いていた小説について検証しておきたいと思っていたので、それをようやく実現したことになる。
彼らの小説も矢野龍渓の小説観からでも評価はできるという話になりました。
では、次は?
今回、石橋忍月や矢野龍渓の小説・単行本について、国会図書館デジタルコレクションを活用した。PDFファイルで保存することも出来てかなり有用。
矢野龍渓の「新社会」(1903年)や「不必要」(1907年)といった小説も公開されているので、そちらを取り上げてみたいというのが今のところの構想なのだが、さてどうなりますやら?
その間に、前のエントリーで「新ネタ(と言えども「浮城物語」論争がらみなので、古ネタでもある)」と書いていた論文を完成させ、現在初校が終わったところ。
以前から石橋忍月や内田魯庵が書いていた小説について検証しておきたいと思っていたので、それをようやく実現したことになる。
彼らの小説も矢野龍渓の小説観からでも評価はできるという話になりました。
では、次は?
今回、石橋忍月や矢野龍渓の小説・単行本について、国会図書館デジタルコレクションを活用した。PDFファイルで保存することも出来てかなり有用。
矢野龍渓の「新社会」(1903年)や「不必要」(1907年)といった小説も公開されているので、そちらを取り上げてみたいというのが今のところの構想なのだが、さてどうなりますやら?

