2019年09月11日

伝記の魔力

『作者のひみつ(仮)』では、作者の伝記・評伝に対して、作者の生涯の出来事と作品を時に強引に結びつけてしまうものとして、そして作者と作品の関係を自明化するものとして批判的にとらえるのだが、しかし一方で伝記・評伝を面白く読むこともあるので、そのへんの態度の区別が必要になってくる。

いわゆる作品の作者ではなくても、人は生きてなんらかのしごとをするので、そのしごとの背景に生涯に体験したできごとがあるととらえるのはわかりやすく、納得しやすい。
坪内逍遥が「小説神髄」で「人情」に次ぐ「小説の主脳」としていた「世態風俗」というのもそういう、生活を描くことで生まれるリアリティを指していたように思われる。
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今で言うと、マンガやアニメやライトノベルでキャラクタの過去話を入れることにも繋がっている、しごとの背景を描く・読むことには強い魅力・魔力があるのである。

さて、明日から後記の講義が始まるので、書きこむペースは3月までと同じ感じになる予定。
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2019年09月09日

作者と犯人

昨日画像を載せたノンフィクションを読んでいるのだが、殺人を自供したあたりで急に『家族の暗流」という出生から事件直前までを伝記的に語っている。一応事件を起こした理由とされてきたことの否定として必要ということなのだが、犯人についてはその生涯・半生を知る必要があるということなのか。

それで、気づいたが、作者について生涯・半生が必要と考えられているのは、ほとんど犯人扱いしているということにならないか。
犯人は犯罪を残すが、作者はかわりに作品を残す。
犯人の伝記と、作者の伝記、これはどちらが先なのだろうか。

ちなみにこちらの本は作者であり、犯人にされた人たちの話。
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2019年08月11日

『作者のひみつ(仮)』3章を公開

今回はさらに短い。

正直noteの機能には納得できないところがある、というかかなり使いにくいサービスではないかと思う。
この程度のレイアウトの機能では、紙の出版物に慣れた目には厳しい。
いや、紙の出版物の代替品ではなく、新たな表現ツールということなのだろう。

今回もなぜか本文中に画像を埋めこむのができず(1章ではできたのに)、原因を探る時間を取るのもアホらしいので、一番上に載せることで許してやることにした。
初期は下書き保存すらできなかったのに比べればよくなってはいるとは思う。

続く4章は、肖像写真の話。

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2019年08月10日

『作者のひみつ(仮)』2章を公開

二週間ぶりくらいでnoteに2章を公開。

とはいえ、1章に比べてかなり短くなった。逆に1章が長すぎるのかも。
近世の出版について調べたことで活かせていないのがたくさんあるので、もう少し追加するかもしれないし、後の章で使うかもしれない。
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今回公開したのは暫定版になるかもしれないが、ひとまず先に進みたい思う。

次は〈仲介者〉について説明する章の予定。
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2019年07月28日

『作者のひみつ(仮)』1章を公開

三日前に公開した序章の続きをまたnoteで公開している。

最後の方で次章で述べると書いた日本の話は、本当は1章に含めたかったのだが、2章との長さのバランスのために移したのである。
2章は、著作権(著作者財産権と著作者人格権)の概説、著作権と作者の特権性、ヨーロッパにおける著作権の歴史、それと同時代である17世紀から19世紀にかけての日本の出版状況、日本における著作権の導入と定着、のような話の流れになる予定である。

こちらは少し時間がかかるかもしれない。
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2019年07月27日

ベルヌ条約

『作者のひみつ(仮)』2章では、作者の特別な地位と著作権の関係について述べるのだが、日本の著作権法だけではなく最初の国際条約であるベルヌ条約について確認しておこうと思って、ひとまずネットで調べてみた。

WIPO(世界知的所有権機関)のサイトに要約が載っていたが、基本的なことは1886年のベルヌ条約の時点で定められていたことはわかった。

(b) Subject to certain allowed reservations, limitations or exceptions, the following are among the rights that must be recognized as exclusive rights of authorization:

the right to translate,
the right to make adaptations and arrangements
of the work,
the right to perform in public dramatic, dramatico-musical and musical works,
the right to recite literary works in public,
the right to communicate to the public
the performance of such works,
the right to broadcast (with the possibility that a Contracting State may provide for a mere right to equitable remuneration instead of a right of authorization),
the right to make reproductions in any manner or form (with the possibility that a Contracting State may permit, in certain special cases, reproduction without authorization, provided that the reproduction does not conflict with the normal exploitation of the work and does not unreasonably prejudice the legitimate interests of the author; and the possibility that a Contracting State may provide, in the case of sound recordings of musical works, for a right to equitable remuneration),
the right to use the work as a basis for an audiovisual work, ,and the right to reproduce, distribute, perform in public or communicate to the public that audiovisual work.

The Convention also provides for "moral rights", that is, the right to claim authorship of the work and the right to object to any mutilation, deformation or other modification of, or other derogatory action in relation to, the work that would be prejudicial to the author's honor or reputation.


後半に出てくる"moral rights"が著作者人格権と訳されているのだが、"authorship"という単語とか、"the author's honor or reputation"といった言い回しが著作物と著作者を絶対に切り離せないものとして結びつける。
「名誉と声望」か……
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2019年07月25日

『作者のひみつ(仮)』序章を公開。

7月22日にふれた『作者のひみつ(仮)』の序章ができたので、noteに載せてみた。

noteは、4年半前に全て掲載済だとなぜか思いこんで〈その3〉までで放置していた「『夢野久作の日記』より」の続きもあるので、それもおいおい手を付けていきたいものである。
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2019年07月24日

島村抱月とゾラ

先月の「田山花袋とゾラ」の続きで、評論家として自然主義の主張をリードした島村抱月を読んでみたが、「自然主義は、夫の写実といふ近世の一潮流を併呑して、ますます悪路に入り、遂に科学主義にまで堕せんとせり。仏のゾラ等は之れが代表者なり。」(「囚われたる文芸」『早稲田文学』1906年1月)、「作者の掴んだ所が果たして所謂人間のドキューメントの全文であるか否かは疑問であること、ゾラ等の場合とはかはらぬとしても、それは此の方面に於ける自然主義全体の疑問である。」(「「蒲団」評」『早稲田文学』1907年10月)、「ゾラは欧洲の文學史中最好の自然主義代表者である。」(「文芸上の自然主義」『早稲田文学』1908年1月)というような記述はあるのだが、ゾラは芸術にその身を捧げた的な記述は見当たらないのだった。
小説によって現実を、社会問題を写し出そうとしたというような文言はあるので、いや、それだけではなく小説で収入を得ることも目的としていたのである、という風に話を持っていくことはできそうだが。

ゾラが『ルーゴン、マカール』二十篇の小説は、相補うて一の系統遺傅論であることは言ふまでもない。此の意味で彼れは進化論の真理を目的とした。また彼れの『ラッソモア』は男女が飲酒、色欲、貧困等に圍まれて如何に堕落し死亡し行くかを語るを目的としてゐる。社会問題である。又彼れの作には病的生理現象を説明するを目的としてゐるやうに見えるものがある。又彼れの作は人間を赤裸々にして全く文明の衣を剥ぎ去った原始性。野獣性の者として取り扱ってゐる所が多い。其の結果道徳感上の醜を描いて怪まぬ。肉感的な所も日常卑近の境を材とする所も、景色動植物器具家屋等の自然物を細寫するに筆を吝まぬ所も皆此の條件に合期する。
明治文学全集43『島村抱月・長谷川天渓・片上天弦・相馬御風集』筑摩書房、1967年、54頁


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2019年07月22日

テレビにおける「作者」の扱い

昨年度まで講義していた「文学論」では、ある程度作者の特権的な地位について説明した後、マンガ家の諫山創を取り上げた「未来シアター」(日本テレビ系列、2013年5月10日放送)についてふれて、いわゆる「文豪」的な作家だけでなく、たとえ現代の、文学ジャンル以外の作者でも同じように扱われるということを示していた。

「作者のひみつ(仮)」では構成を変えて、「序章 作者のなにが問題なのか?(仮)」でまずこの番組を紹介して、これから作者について述べることを予告する役割を持たせようと考えている。ただ、講義では実際の番組の録画を見せていたのだが、書籍の場合はそれは無理なので、ナレーションの引用と、こんな画像が流れてましたよ、という文章による紹介をするしかないのだった。

しかし、「進撃の巨人」がアニメ化され話題になった頃に作られたこの番組ももう6年前なのだった。原作は一応終わりに向かっているようだが、最終回は「作者のひみつ(仮)」が出るのとどちらが先なのだろうか。

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2019年07月12日

作者が自ら語ることの意味

昨日ふれた『拝啓マッカーサー元帥様』の続きを読んでいるが、「めったにその姿をお示しにならない」とはいえ、写真が全く出ていないという訳ではなく、やはり肖像写真を見て近さ・親しみを感じてしまう人々はいて、様々な期待をもった投書を送ってくるのだった。

この後引用する投書は、マッカーサーの写真を見たことがわかる内容である。「無名の彫刻家で、石膏によるマッカーサーのレリーフ(浮彫の像)を自分から作って献上したところ受納されたので、今度はそれをプロンズにしないかと持ちかけている。手紙は巻紙に筆で書かれ、まさに雄渾としかいし、ようのない勢いの達筆である。投書の主の気持のたかぶりが何よりもその筆の勢いに現れており、同時にこのような手紙を書かせた時代の雰囲気が感じられる。日付は昭和二十四年十一月二十三日。」(157-158頁)とのことである。

幸ひ彫刻芸術家として製作意欲をこゝに持ちました次第に御座います 只残念にも総司令部の前にて遥かにそして残(暫)時元師(ママ)を拝し時々群集中の一人として卑(ママ)弱なオペラグラスにて拝姿したのみにて例へ絵は画けましても彫刻は簡単に行きません 遂に共同通信社の撮影になる立派な御写真を見出し小躍りして製作せる次第に御座いました  之れほど広大無辺の御容相レリーフ表現にあたり全く条件に適合せる想念を宇宙化した尊顔は今尚小生の知る限りに於て他に見出すことが出来ない次第に御座います
158頁


マッカーサーも「総司令部の前」で「群衆」の前に立ったり、共同通信社の依頼に応えて写真を撮らせたりはしていた訳で、しかし親しく声をかけるようなことは避けていたということになる。
今ならブログもSNSもやってない、ドキュメンタリーやバラエティ番組にも出ない有名人みたいなものだろう。

新しい日本の作者マッカーサーは、そのようにして自身を卓越化していたのである。
その点で、エッセイや対談・インタビューなどでの作者自身の言葉は、彼らを平準化する力を持つことになるのだろう。
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2019年07月11日

権威となるためのテクニック

6月30日に「小春日和」に出てきたのを紹介した「拝啓マッカーサー元帥様」を読んでいる。

占領下の日本で「絶対権力者として開明専制君主を演じ続けたマッカーサー」宛に送られてきた投書についての研究書である。
『思想の科学』1983年8月号〜1984年7月号に連載されたものをまとめて、1985年8月に大月書店から出版された。読んでいるのは2002年に岩波現代文庫から刊行されたものである。

本来、天皇の死・改元について考えるための参考文献だったのだが、次の箇所は作者のイメージの操作と関わるものとして興味深かった。

 2 人々は招く

 マッカーサーは日本国民からの招待をいっさい受けようとしなかった。あれだけの雄弁家(かなり古典的ではあるが)が、占領下の日本人に対して口頭でなにかを述べるということはついぞなかった。だから布施辰冶の期待もまったくの空振りに終わっている。ジョン・ガンサーは「神様というものは、めったにその姿をお示しにならないものだ」(『マッカーサーの謎』)と、彼の超越的な支配のマナーを皮肉っているが、それが実は日本占領が成功といわれた理由の一つなのである。それでも日本人はこの青い眼の支配者に対し、 占領期を通じてせっせと招待状を送りつけた。ここにはその二通だけを紹介しよう。 一通は鎌倉の鶴岡八幡宮宮司からで、日付は敗戦の年の十月二十四日、布施辰治が「進駐軍歓迎民衆大会」の呼びかけをはじめた、ちょうどその頃である。原文はタイプライターでうった英文で、本文と付属のノート各一枚から成る(「マッカーサー記念館所蔵史料)。
49頁(引用者注:布施辰冶は投書の筆者名)

 (略)ともあれ「再度の御訪間を」というこの招待を、マッカーサーはもちろん受け入れていない。彼は気晴しをするということのできない人間だった。夜おそく宿舎で見る西部劇映画を別にすれば、 趣味といったものはない。マッカーサーが日本人にまじって元禄花見踊りに目を細めている姿は、想像して見ると面白いが、そのような姿をけっして見せないことが、彼の日本支配のスタイルだったのである。
52頁


文学論の講義では、紅野謙介『書物の近代』を参照して、作者の肖像写真は読者に近さと遠さの両方のイメージをもたらす、と説明していたのだが、マッカーサーの取った手管は遠さによって自らを権威化するものだったことになる。
5DBC4499-6B6D-4BE2-80BE-3FD39B4014BA.jpeg書物の近代−メディアの文学史 (ちくま学芸文庫)

ちなみにこれは、行幸を繰り返し、また積極的にテレビなどのマスメディアを活用して近さと遠さを作り出した戦後の皇室とは大きく異なるものである。
そういえば、『書物の近代』では書物に掲載された睦仁天皇の肖像も紹介していた。
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2019年07月06日

「個性」「内面」の重視

『作者のひみつ(仮)とは関係なく、授業に使えるかと思ってこの本を読んでたら、作者の話について少し考えることになった。
正しいコピペのすすめ 模倣、創造、著作権と私たち 岩波ジュニア新書 / 宮武久佳 【新書】 - HMV&BOOKS online 1号店
正しいコピペのすすめ 模倣、創造、著作権と私たち / 宮武久佳

 一体なぜ、著作権は「作った人の気持ち」に強く配慮しているのでしようか。「著作者人格権」(ちょっとかたい言葉ですが、これを機に覚えてください)について考えてみましよう。
 それは私たちという「個人」や「個性」が重要視されていることの表れです。私たちは、この世の中で、2つとない1つの存在です。この考え方が日本の著作権法にも受け継がれています。つまり、人格を持った人間が作る以上、コンテンツは人格と結びついているという考え方に基づきます。
40頁


その後の頁では「私たちの内面に関わる著作者人格権」(45頁)という記述もあり、なんとも近代文学的な用語が並んでいる。

芸術・文学において作者の存在が絶対的なもの(この本では「キング」に例えられている)になったのは、著作権(特に著作者人格権)が確立・普及したことが最も大きな要因であると講義で説明してきたのだが、そもそも著作権にかかわる思想自体が芸術・文学に浸食されていたのかもしれないと思い始めてきた。

もちろん、現在著作権について語る者たちが浸食されているということかもしれないので、ベルヌ条約の条文に遡って確認してみるか。
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2019年06月28日

「露骨なる描写」におけるヨーロッパ作家たちの劇化

「恋する民俗学者」の第15回その2に「露骨なる描写」(1904年)の引用があって、そこにゾラが出てきたので読みなおしてみた。
引用は『日本批評大全』(河出書房新社、2017年)による。

 けれど十九世紀革新以後の泰西の文学は果して何うであらうか。その鍍文学が滅茶々々に破壊せられて了つて、何事も露骨でなければならん、何事も真相でなければならん、何事も自然でなければならんと言ふ叫声が大陸の文学の到る処に行き渡って、その思潮は疾風の枯葉を捲くがごとき勢で、盛にロマンチイシズムを揉闘して了ったではないか。血にあらずんば汗、これ新しき革新派の大声呼号する所であったでは無いか。
 虚言と思はゞ、イブセンを見よ、トルストイを見よ、ゾラを見よ、ドストイエフスキーを見よ、其の作の中にいかに驚くべき血と汗とが籠められてあるか。殊に、ドストイエフスキーの『罪と罰』の如きは、技巧論者が見て以て胆を落すやうな作で、その何事をも隠さない大胆な露骨な描写は、文章の綺麗を求め、思想の鍍せるのを望む技巧者一輩の夢にも見ることの出来ないものである。
107頁


技巧を凝らした文学はメッキを施した偽の黄金である、という主張をし、「露骨」「真相」「自然」を追求した作家達の一人としてゾラがあげられている。

ここであがっている作家達が実際は非常に技巧を凝らした作品を書いているということ、さらに田山花袋たちの小説にも十分技巧が用いられているということは、既に当時泉鏡花が批判している。
こおで問題にしたいさらなる誤謬として、「驚くべき血と汗とが籠められてある」ことの理由をあえて見ていないということがあるだろう。優れた作品を書きたいという情熱の中には、自身を他の作家達と差別化し、作品をより多く売るための努力ということも含まれているわけである。

もちろん、この随筆は「技巧」についての論なので、何のために作品を作るのか、という点には言及していないのだが、「技巧論は単に技術の上のみの論ではなく、確かに今の思識の上にも関係して居る」(109頁)というのだから、「露骨」「真相」「自然」に「血と汗を籠め」ることそれ自体が目的だという発想が隠れていることは想像できる。
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2019年06月23日

作者と読者の歴史を三段階で考える

昨年度まで担当していた講義では、作者と読者(享受者)の関係について二段階の変化で説明していた。
しかし、江戸時代の日本の出版についての本を読んで、過渡期を挟んでの三段階で説明する方がいいということがわかった。
過渡期はおそらく150年程度の短い時期なので、微修正ではあるのだが、出版業が確立したからといって、いきなり作者が不特定多数の読者を相手にしなければならなくなった、という訳ではないのである。

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たとえば、この本だと過渡期から近代的な出版産業への以降を寛政期(1789-1801)のことととらえている。
つまり、黄表紙は天明期(1781-1789)までは「武士階級を主とした知識人の余技」で「同好の人間を読者として想定した、いわばサークル文芸のようなもの」だったのが、「寛政も中頃になると」「より広く多数の購買者を獲得できる優良な商品である」ための「努力が加えられるものになっていった」というのである。
江戸で商業出版が行われるようになった寛永(1624-1644)頃から一世紀半くらいの間は、今でいうと同人誌専門の印刷所みたいな感じで出版業が成り立っていたということである。
写本の時代よりは多くの読者を持つようになりつつ、作者と読者が顔の見える閉じた関係だったのはそれ以前の時代と変わらないというのが過渡期の特質である。
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2019年06月22日

田山花袋、本を買う

またまた『定本花袋全集』15巻の話。

ちなみに20世紀初頭に日本の文学者たちに問題化されていた「実行と芸術」の偽対立から話を始めることでうまく論が進められることに気がついた。
ここでいう「実行」とはご存じのとおり、「実際の生活の糧になる、収入を得られる行為」くらいの意味である。
いや、「芸術」だって商品なんだし必ずお金がからんでくるでしょう、というツッコミは当然可能で、それがいかに対立になっていないのかの例として「東京の三十年」の以下の記述も使えそうだ。

   丸善の二階

 十九世紀の欧洲大陸の澎湃とした思潮は、丸善の二階を透して、この極東の一孤島にも絶えず微かに波打ちつゝあつたのである。561頁
(略)
 註文した『親々と子供』の一冊を抱いて、恋人にでも逢つたやうにして、丸の内の宮城近い路を歩いて行く青年もあれば、『アンナ・カレニナ』の丸善の二階書棚に並んでゐるのを見て、一月の小遣銭しかない財布を逆さにして、喜んでそれを買つて行く若者などもあつた。(略)562頁


ヨーロッパの最新の文学作品を商っている丸善。田山花袋も文学が商品であることは当然わかっている。

 兎に角、この欧洲大陸の大きな思潮の入つて来た形は面白かつた。三千年来の島国根性、武士道と儒学、仏教と迷信、義理と人情、屈辱的犠牲と忍耐、妥協と社交との小平和の世界、さういふ中に、ニイチエの獅子吼、イブセンの反抗、トルストイの自我、ゾラの解剖が入つた来たさまは偉観であつた。(略)563頁


ここで名前があがっている作者たちの本がはるばる日本まで運ばれてこられるのは、出版社が商品となりうることを認め、また読者に買われる実績をあげたからである。

 ある日、私は丸善の二階に行つた。そしていつものやうに、そこに備へられた大きな目次の書を借りてそれを翻してゐた。ふと、モウパツサンの『短篇集』が十冊か十二冊、安いセリースで出版されてあるのを発見した。何とも言はれず嬉しかつた。私は金のことなどを考へずにすぐ註文した。
 それの到着したのは、わすれもしない、三十六年の五月の十日頃であつた。私は其頃は博文館に入つて、『太平洋』を編輯してゐた。その日は雨が降つてゐたが、電話でそれを知らされると、もうゐても立つてもゐられなかつた。すぐに行つて取つて来なければ承知が出来なかつた。しかし、それにつけては、銭がない。受取つて来る銭がない。七八円の金だが、それがない。さうかと言つて、月末まで待つてゐる気にはなれない。仕方がないから、出版部に行つて、時の部長U氏に泣附いて、『美文作法』を書く金の中から十円前借りをした。そして降り頻る雨をついて丸善へと出かけた。564頁


二段落目の「銭がない」三連発はかなり面白く、「蒲団」の笑いに通じるものがある。一段落目の「金のことなどを考えへず」というのが見事な伏線になっている。

さて、ここに出てくる「安いセリース」は、おそらく出版社が大衆読者層を狙って作った廉価版の短篇シリーズなのだろう。そういうものが出ていたことは以前紹介した本に書かれていた。
おかげで田山花袋はモーパッサンの様々な短篇を読むことができたのだ。
そして、それを買う代金のために、彼は文章を売っている。文章を売った金で人の売った文章を買うという状況、それは近代においてありふれたことである。
しかし、ありふれたことと受け取れない人たちがいた訳で、それはとても面倒な話である。
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2019年06月21日

田山花袋と売文

『定本花袋全集』15巻、批評や文章論ではずいぶん「芸術」「文学」が至上という記述ばかりだったが、回想の『東京の三十年』(博文館、1917年)になると、文を商品として売ることについて語るところが出てくる。


   H書店の応接間

 H書店の応接間は私が知つてゐるだけでも、一度、二度、三度変つた。最初は店のすぐ上の八畳、その次は少し奥になつた六畳の狭い一間、其処には若い男女の密のやうな媾曳の春の月夜のコロタイプ版の額がかゝつてゐた。
 その次は、編輯部の隣りで、たしか八畳の一間。
 『癪で仕方がないけれど、たうとうあの応接間へ行つた。金が欲しいんでね。仕方がないね。』
 かう湖処子が言つた。
 湖処子はその時分『国民之友』の批評欄に、三面楼主人といふ名で筆を執つてゐて、いつも硯友社側の柔らかい作品を攻撃してゐた。
 湖処子に限らず、誰も皆なこんなことを言つたろうと思ふ。文を売る痛苦、雑誌の主筆に泣きつく羞恥、さういふことを誰も彼も味はせられた。
535頁


博文館のことを「H」と伏せ字にしているが、『東京の三十年』の版元なので、気を遣ったのかしらん? いや、意味ないですよね。
ここでの「痛苦」「羞恥」は様々な意味にとれるし、その全ての解釈があてはまりそうなのだが、文学の作者も商人であるということがよくわかっているのである。

おもしろいのが、『文學界』同人が、同人誌の原稿よりも原稿料がある仕事を優先するようになったという話を別のところで2回繰り返していることで、仕方ないってことなのか、残念だったということなのか、不純だと非難しているのか、逆におかげで原稿を載せられて良かったということなのか、どちらにしろ強く印象に残っていたようだ。

   当時の大家連

 『文學界』の人達も、その頃には、もうたゞの原稿を書くのがイヤになつてゐて、銘々他の雑誌へとその文章を載せるやうになつてゐた。秋骨氏はY新聞の批評家となつた。禿木氏は『帝国文学』にその研究を寄せた。島崎君は、詩から小説に筆をつけて、『うたゝね』といふ処女作を公けにしていた。
534頁

   私達のグルウプ

 それに、柳田君の従兄に中川君といふ人がゐて、この人が『文學界』の主任星野天知君やその弟の夕影君と懇意であつたので、段々原稿を『文學界』に載せるやうになつた。『文學界』の人達は、其時分は、もうたゞで原稿を書くのが張合がないといふ風になつてゐた。
542頁
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2019年06月20日

田山花袋とゾラ(続き)

定本花袋全集 第15巻 /臨川書店/田山花袋

また昨日の続きだが、ゾラについての言及はちょこちょこあるものの、芸術至上主義、およそ商売人とはほど遠いゾラのイメージがこちらに都合の良いようには出てこないのだった。

1912(明治45)年に刊行された『花袋文話』に収録されている「文章と型」には次のような記述があるが、例にあがっている作家にはゾラは含まれていない。
なんでだよ!?
仏蘭西などは流石に芸術の国だけあつて、その匂ひが殊に強い。文体といふことで一家の意味をなすので、いくらか「芸術の為の芸術」といふところがある。即ち好い意味の型を持つて居るのだ。ロチがさうである。ドオデエがさうである。フローベル、ゴンクール、亦さうである。アナトール・フランスの如きは殊にその特色を持つて居る。
187頁

さらに読んでいく所存である。
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2019年06月19日

田山花袋とゾラ

昨日の流れで『定本花袋全集』(臨川書店)を借りてきて読んでいる。まずは「インク壺」。しかし、この全集の戦前に編集された前半部分は、書誌が載っていないのが困りものである。調べれば、すぐわかることではあるのだが。

ちなみに、最近「恋する民俗学者」を読んでいるので、出てくる固有名詞があのマンガの絵で再生されるのが困りものである。
321312000194.jpg
リンク先のComic Walkerでも読めます。
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2019年06月18日

ゾラとジャーナリズム

五日前に引用した文章に、出処不明なまま引用されていた山田稔の文章を見つけた。
おそらく「ナナ」の翻訳に付随したものではないかと思ったらそのとおり、世界文学全集III-13『ゾラ』(河出書房新社、1965年)に収載された「解説 ゾラと現代」だった。ちなみにこの文章は同じ河出書房新社から刊行された他の世界文学全集の山田稔訳「ナナ」を収めた巻にも使いまわされていた。

引用文は398頁の冒頭から引かれているのだが、同じ頁には次のような記述もある。

 フランスにおいて、文学とジャーナリズムの関係が問題になりはじめるのは、一八二〇年から三〇年にかけてであって、一八三九年にはサント=ブーヴが、今日でいうマス・コミ文学という意味で、「産業的文学について」という文章を発表する。これは主としてバルザックを攻撃目標にしたものであった。バルザックは、ブルジョワ社会で文芸の自立を保証してくれるものは、 ジャーナリズム (主に雑誌ジャーナリズム)だと考えていたのである。文学上でバルザックの後継者たらんとこころざすゾラは、文学とジャ−ナリズム(とくに日刊新聞)との結びつきについて、バルザック以上に楽天的であった。それをよくあらわしているのが、「文学における金銭」という評論である。
 文芸が商業化し、金銭の奴隷となりつつあるという非難にたいし、ゾラは、特権階級の寄生的存在にすぎなかった作家の、社会的地位の向上を強調する。教育の普及、読者層の拡大、書物の日用品化。出版企業の巨大化。その結果、作家は自分の筆一本で生活する労働者になった。この「労働者化」のうちに、ゾラは文学者の経済的・社会的自立をみる。その自立を保証するのは金銭だ。作家は金銭によって、アカデミー、教会、国家など、伝統的権成から解放される、 とゾラは考えたのだ。
398頁


サント=ブーヴについては『メディア都市パリ』でも言及されていた。あちらは「商業文学について」と訳していたが。

文学を商業から遠ざけようとする日本で自然主義を標榜する作家達。彼らゾラを崇拝する文章を紹介し、しかし実際ゾラは、という展開で話を持っていけばよさそうだ。

 ゾラは、 マネーを擁護した一文のなかで、今日の芸術家は、ロマンチックな放浪者でなく、家庭生活をまもる、普通一般の善良な市民である、といったことをのべている。それはゾラ自身の生活でもあった。毎日、時間をきめて原稿を書き、時間になると、書きかけのところでペンをおく、といった機械的な習慣のくり返し。散文的な、あまりにも散文的な生活。日常生活をもっぱら職業作家としての生活に限定し、ただ『ルーゴン=マカ−ル』の完成のために生きるといった徹底した職業意識、それをゾラはうけいれたのであった。
 ここに、フロべールとはまったく異なった形での、「文学のための生活」という作家の生き方がある。フロべールは芸術のために、美しい文章のために、生活をささげた。ゾラはーーゾラは「職業としての文学」のために生活をささげる。ささげる、というより、むしろ、ささげることを強いられたというべきかもしれない。なぜなら、ゾラの楽観にもかかわらず、きわめて現代的な、資本主義社会における職業作家の問題が、すでにあらわれているのだ。「労働者化」のうちに作家の自立を夢みたゾラを、逆にその職業がおびやかす。自信をひっさげて、文壇という闘技身場におどり出たものは、自信の重荷を背負って、くたばるまで競技をつづけなければならぬ。そのことはゾラ自身がよく知っている。書くか、忘れられるか。自分が「他人を踏みつけにしなければ、かならず他人に踏みつけられる」のだ。
 なるほど、ゾラには、二十世紀の芸術家にしばしばみとめられるような、、生活のために自己の「芸術」を売ることを余儀なくされる芸術家のうしろめたさは、まだ生じていなかった。それは第一に、当時のジャ−ナリズムがなお果していた積極的役割、すなわち、作家を特権階級の庇護から独立させるという解放的役割を、ゾラが全面的に信頼しえたからである。だが彼が意識するしないにかかわらず、ゾラの作家としての条件のうちには、資本主義的ジャーナリズムの否定的要素がすでに萌芽としてあらわれて いたのだ。そして、そのことと、ゾラにおける暗さとは無関係ではない。
400-401頁


一方、このようなとらえ方とどのように距離をとったらいいのか、もう少し考えてみよう。
「「芸術」と「職業」との矛盾の意識」「資本主義的ジャーナリズムの否定的要素」を「意識」、すなわちイデオロギーの問題として考えたいのだが。
posted by kuwabara at 21:00| 大阪 ☀| Comment(0) | 作者のひみつ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月13日

ゾラと文学の商品性

一ヶ月ほど前に紹介した本から、『作者のひみつ(仮)』に使えそうなところを抜き出す作業をした。
たとえば、こんなところ。

 大学に進学し損ねた未来の大作家が、その代わりにアシェット書店という学校で学んだことは、思想や知識以上に、文学の商品性に対する認識である。たとえば、〈ルーゴン=マッカール叢書〉の代表作に数えられる『ナナ』をかつて翻訳した作家の山田稔は、「アシェット社の宣伝部はゾラに、文学は商品である、商品としての文学をいかにして売るか、ということを教えた。つまりゾラは、「売る」ことと同時に「書く」ことをまなんだ作家である」と指摘している。「資本主義社会における職業作家の、もっとも早い典型としてのゾラ」は、「思想や知識」を、単なる「コンテンツ」としてではなく、それを入れる器である「メディア」―刊行形態および流通形態―と一体のものとして受容することから出発した。そんな彼にとって、著者と出版者を不倶戴天の敵同士と見倣す発想は、もはやロマン主義時代の遺物であり、編集者との共犯関係は自明の前提であった。
石橋正孝・倉方健作『あらゆる文士は娼婦である』白水社、2016年、96頁


日本で自然主義を標榜した人々が信奉したゾラの、文学商人としての戦略と編集者との「共犯関係」。もちろん、自然主義を主張した人々が商人でないということは無いわけだが。

ちなみに、山田稔はこの本を書いた人ですね。

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posted by kuwabara at 15:55| 大阪 ☀| Comment(0) | 作者のひみつ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする