2019年10月08日

作者の写真

『作者のひみつ(仮)』の続き、作者の肖像写真が持つ力を取りあげる章のために大岡昇平全集を見る。

『読むための理論』の「作者」の項目で、『生と歌―中原中也とその後』(角川書店、1982年)で大岡昇平が中原中也の肖像写真に対する〈永遠の少年〉らしく見せる修正について指摘していることが紹介されているのだが、その詳細を確認したかったのだ。

『大岡昇平全集』18巻(筑摩書房、1995年)は中原中也について書かれたものを集めた巻で、実際にその件にふれているのは「写真像の変遷」という『太陽』1980年11月号に発表された評論である。

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『読むための理論』で紹介されていた写真は2葉だけだが、元の評論では29歳時の大人っぽい別の写真も含めて8葉も掲載されている。
読んでみると同じ時に撮られた二種類の写真がそれぞれに修正されているということなので、けっこう面倒な話であった。

ちなみに『読むための理論』で紹介されている二葉は写真aの修正されている3と写真bの修正されていない4だったということがわかり、感じていた違和感も解消されたのだった。

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2019年09月08日

天皇の死と代替わり関連、ひとまず終了

昨日の作業を終えて、ぎりぎり規定枚数の上限に収めた。
もう少し追加する情報があるので週末までに調べるが、ひとまず少し置いておいて「作者のひみつ(仮)」の方をひさびさいじってみようか思っている。

とはいえ、もう後期が終わり講義に復活するので、その準備もせねばならぬ。
こういうのを読んだりもしている。

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2019年04月16日

大江健三郎「戦後世代のイメージ」1959年

昨日書いた大江健三郎の話だが、記憶違いで、「玉音放送」を聞いた後、友達の一人が《天皇の声》を真似たのを聞いてみんなで笑ったという話と、「天皇制が廃止になると大人がいっているが、それはほんとうだろうか?」と教師に聞いたら殴られて足蹴にされたという話が混ざっていたようだ。

昨日リンク貼っておいたエッセイ集『厳粛な綱渡り』の冒頭に収録されている。

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2018年12月27日

来年度について・おすすめ本

そろそろ2018年も終ろうとしているわけで、もちろん悠久かつ広大なる宇宙全体から見れば、銀河の外れにある太陽系の第三惑星で人間が決めた暦などさほど意味は無いのだが、ひとまず年末年始の休みに入るのは楽である。これでいいのだ。

休みと言えば、来年の4月1日から9月11日まで研究休暇を取ることになった。まだ出さなければならない書類もあるものの、一応正式決定、その期間は講義を含めた大学の業務を免れて研究に専念することになる。

予定としては、これまで4年生向けの文学論で扱っていた「作者」について論じたものをまとめるのと、これまで書いてきた大江健三郎・太宰治・後藤明生・大西巨人についての論文を活用しつつ、更にそれらを結び付ける大きな小説論にまとめていくことを考えている。

1890年代の小説についても手を付けたい気持ちはあるのだが、おそらく半年弱ではそこまでは無理。

これまでよりも、こちらに書く機会が増えることになるでしょう。

そういえば、後者の作業と関連しそうな本が出ましたね。

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これまでの『妊娠小説』『文学的商品学』『趣味は読書。』をふまえつつ、従来の戦後文学史とは違う観点(ノンフィクションやエンターティメントへの目配り)を提示しているのがユニークですね。それでも、書き落としているところがあるのは、新書という形態の限界としてやむを得ないのでしょう。
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2018年11月03日

「自然主義の小説と通俗性―排除される佳人―」、発表

前のエントリーで投稿した論文が学部の論集に掲載された。
そのうちこちらに電子化されたものが掲載される予定なので、そしたらまた報告します。

昨今SNS上では児童文学の表紙にどういう絵を使うべきかみたいな話が今更のように話題になっているが、やはりキラキラした外見の女性が登場するというイメージは通俗性と結びついてしまう、本来のシリアスな内容と齟齬する、と考える人たちが多いのでしょうね。

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いやあ、キラキラしてる……
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2014年09月12日

翻訳としてメディアミックスをとらえる

江戸時代から明治初期の様々な「翻訳」のありよう、英語を日本語に移し替えるというだけではなく、日本語から別の日本語、時に表現だけではなく内容までも変えてしまうような移し替えも「翻訳」と捉える考え方(元々「日本語」というフレーム自体が不明確な時期、制度化されていなかった時期であるわけだが)にふれて、小説をマンガ化する、マンガをアニメ化することも翻訳と見なせるのではないか、と考えた。



言語(とわずかな静止画)を静止画と言語とコマ割りに翻訳したのが「コミカライズ」、静止画と言語とコマ割りを動画と音声に翻訳したのが「アニメ化」ということになる。
では、ゲームをアニメに翻訳するのはどう捉えられるのか? ある程度は小説やマンガのアニメ化と共通する部分もあるわけだが、プレイヤーによる積極的な操作が入ってくる分、少し考えにくいところがありそうだ。

posted by kuwabara at 20:29| 大阪 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月28日

note

ここでは紹介していなかったので、今更ながらnoteについて。
(ここだけしか見ていない人というのはあまりいない気もしますが)

このnoteでは論文になるにはいたらないアイディアや調べてわかったことを書いている。

またマガジン機能を使って大江健三郎について書いたものを「大江健三郎ノート」としてまとめている。

少しずつでもnoteを増やしてく所存である。

ちなみに現状報告としては、最新のnoteに書いたように、複数の作家の1970年代後半からの小説家を語り手や主人公にした小説について考察中である。いつ論文になるか、は未定。
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2010年03月06日

一部を分離

〈才子佳人〉からの脱却をテーマにした論文で、論の途中で政治小説から1890年前後の「浮雲」「舞姫」への変遷をふまえてから、その後の〈通俗小説〉の美人、そして20世紀初頭の〈自然主義〉の小説の話に持っていこうと思っていた。
しかし、「浮雲」と「春色梅暦」、「舞姫」と中国の通俗小説との関係が思っていたよりも複雑なので、その部分については今回は簡単にふれるだけにとどめることにした。

次の論文は〈才子佳人〉・人情本・近代小説の三大噺になる予定。ひとまずは〈自然主義〉の問題が優先だが。
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2010年03月03日

〈才子佳人〉再見2

新釈漢文大系『唐代伝奇』に収められている「鶯鶯伝」では、〈才子〉である張はいったん情を取り交わした〈佳人〉の元に戻らずじまいになってしまう。豊太郎がエリスの元に戻らない(だろう)「舞姫」はこの形に近いことになる。

しかし、後世の読者はこの結末を改変し、『西廂記』という二人が結ばれる結末を持つ物語を新たに作り出す。

〈佳人〉と〈才子〉が登場すれば、その二人は結ばれるはずだ、という物語力(読者の〈期待の地平〉に沿おうとする)が働いたわけである。

「舞姫」は〈才子佳人〉の物語をパロディとしてひっくり返しているわけだが、それは〈物語〉の元々の起源に遡ることにもなっていたことになる。

こういう物語の二種類の結末はどの程度知られていたのだろうか。

そのあたりを今回どのくらい調べられるかわからないんだが、ひとまず〈物語〉と〈物語〉を不発に終わらせることが交互に現れることでテクストを更新していくということは言えるだろう。
posted by kuwabara at 21:53| 大阪 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

〈才子佳人〉再見

〈才子佳人〉物語を日本近代文学がどのように取り入れ、またそこから脱却しようとしたのかを考えているのだが、あらためて〈才子佳人〉物語とはどういうものかを確認する作業を行っている。



(読んでいるのは、この新書の元になった同じ明治書院から出ていた新釈漢文大系の『唐代伝奇』)

〈佳人〉は外見が美しいだけではなく、たとえば「李娃伝」の李娃のように優れた芸妓であったり、彼女自身が何らかの技能を持っていることがが必要である。

「舞姫」のエリスがダンサーであるというのはその流れを汲んでいるし(また太田豊太郎が官職を失い零落するということ自体「李娃伝」をふまえている)、島崎藤村「風景画家」の音楽家、田山花袋「蒲団」の小説家志望など、特別な技能を持つことで彼女たちは〈佳人〉であることのしるしを与えられているわけである。

島崎藤村「春」の亡くなった青木の理解者の女性の造型までこれは続くのだが、小説の後半、岸本が拘置所で見かける美しい女性と全く関係を持たないということころに、大きな断絶があるという見取り図ができそうである。
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2010年02月20日

馬場孤蝶『明治文壇の人々』




『文学界』同人として島崎藤村とも近かった英文学者の回想録。初出の記載がないが、『近代文学研究叢書』で調べればいいか(ちなみに没年順のために非常に使いにくいこのシリーズを作家名五十音順にリスト化したのがこのサイト。大学の後輩の手になるものです)。

今のテーマとの関連でいくと、井原西鶴などの元禄文学の翻刻が若い文学好きの間で流行り、島崎藤村が翻刻にはあきたらず原本を蒐集していたという記述が参考になった(p35・p185-186)。
島崎藤村や田山花袋の小説中での男女関係の造型には、古典的な〈才子佳人〉物語とハウプトマン「寂しき人々」が混じり合っているのだが、たとえば西鶴の好色物や近松の心中物などはどのように受容されているのか。

一方で時代的により近い天保期以来の人情本についての記述はこの本にはないが、読んでいないということなのだろうか。
このあたり、「浮雲」で本田昇に内海文三のことを「明治の丹次」と呼ばせた二葉亭四迷の世代とは寄って立つ基盤が違うということなのかもしれない。

しかし、このウェッジ文庫というシリーズはいまどき奇特なラインナップである。あの『WEDGE』を出しているところだというのがまた不思議。
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2010年02月07日

〈美人〉と描写

一ヶ月余り更新できなかったが、その間に「草枕」と「虞美人草」を読んでいた。那美や藤尾は他の登場人物によって美人であることが語られているのだが、地の文では直接美しいものとして描写されることはない。「虞美人草」では藤尾についての描写はあるものの、朦朧として煮ていて、何となく美しそうな雰囲気が漂っている感じがするだけである。
去年の最後に書いたように、やはり文章による描写と「美」はかみ合わないということもあるのだろう。

現在田山花袋と徳田秋声の初期の小説を読みつつ、「吾輩は猫である」や「三四郎」(「草枕」と「虞美人草」の前と後)の女性描写も確認する予定である。
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2009年12月24日

美と描写

『日本近代文学』第78集収録の富塚昌輝「思想としての木版和装本」p26-28では、登場人物の容貌の描写が問題化されている。

美しい容貌を持った人物を登場させるに際しては、実は詳細に容貌の特徴を描写することでその美しさを不鮮明にする可能性がある。

つまり〈佳人〉を登場させるのであれば、たとえばそのかんばせを花などに譬えることは有効でも、細部を描写することは避けた方がいいことだと考えられる。

しかし、容貌からその人物の人間性を明らかにできると考える立場が導入されることで、本来不利な美しさを描写するということが行われるようになったのだろう。

あくまでも〈佳人〉を美しいものとして、示すことにとどめていたものは、通俗のレッテルを貼られ、人間性を描かねばならない〈文学〉から排除されていくようになるわけである。
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2009年12月20日

日露戦後という問題系



島崎藤村・国木田独歩・田山花袋・小栗風葉・夏目漱石といった作家たちについての同時代評の変化から、日露戦争後に生まれた現代につながる文学の評価軸を浮き彫りにした労作。

小説テクスト自体に関する読みや評価はないし、「文壇」を離れて読者がどのような評価(単純に人気があったとか、売れたとか)をしたのか、という点には禁欲を貫いている。

劇的に新しい事実が明らかになったわけではないが、読んでおくとあれこれ揚げ足を取られることを避けられる本である。

ちなみに、漱石の評価が凋落したのは、「坊っちゃん」や「草枕」で美女を登場させていることも関係があると思う。
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2009年11月14日

「「嘉坡通信報知叢談」論―メディアとしての小説―」

〈クワバラのテクスト〉のページに最近発表した「「嘉坡通信報知叢談」論―メディアとしての小説―」を掲載した。
1880年代の『郵便報知新聞』の小説についての調査はこれで一区切りで、論文の最後にも書いたように次は『讀賣新聞』の紙面改革と小説の関連について調査をする予定。

しかし、ひとまずは最近書いている〈才子佳人〉物語関連のテーマについての調査が先である。今日は〈才子佳人〉物語が成り立つ状況設定について考えた。
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2009年11月13日

ハウプトマン「寂しき人々」の受容

女性を佳人として描くことをやめることが自然主義の条件の一つであった、ということがだんだん明確になってきた。
これは半分冗談だが、文学史上で長い間泉鏡花が傍流的に扱われてきたのは、つい美人を登場させてしまったからではないだろうか。

この〈才子佳人〉の枠組みが持つ拘束力の強さについては、ハウプトマンの「寂しき人々」の受容のされ方からも示すことができるように思う。島崎藤村や田山花袋の「寂しき人々」もどきの小説からすると、彼らはこのドイツを舞台にした戯曲までも〈才子佳人〉物語だととらえていたふしがある。
もちろん、アンナ・マールは愛する男のために身を捨てて尽くすような女性ではないし、通常の〈才子佳人〉物語と違って才子は不遇のまま自ら死を選ぶという結末に至るわけだが。
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2009年11月03日

人情本の影響

井上泰至『恋愛小説の誕生 ロマンス・消費・いき』では、天保以後の為永春水の人情本を評価し直し、そこに描かれる男女のかけひきや演技ががどのように読者に楽しまれてきたかを分析している。その際批判の対象となっているのは、「真情」を恋愛の必須条件とすることで人情本を貶めてきた多くの近世文学研究である。

今考えている問題との関連で言えば、〈才子佳人〉物語と人情本的な男女関係がどのように近代になって対立しつつ溶けあっていったかということが考えられる。
対立というのは、たとえば本書でも紹介されている「浮雲」の「明治の丹次」という呼称を、〈才子佳人〉的な関係を期待する文三が嫌ったという点にあらわれている。
しかし、会話をめぐるかけひきは同じ「浮雲」の文三・お勢・昇の三角関係にも読み取ることができるものであり、文三はそれに乗り損なったが故にお勢を失うとも言えるし、またお勢の評価が従来低いのも彼女の演技やかけひきが「真情」のないゆえととらえられてきたからかもしれないのである。

また、本書では「評論家」と呼ばれ、人情本の批判者としてしか名前のあがっていない饗庭篁村の書いた小説が人情本とどのように関係しているかというのも気になるところである。

「大衆」という言葉の使い方や、近世の作品を現代の恋愛小説と直結させて考えていいのか、など、ひっかかるところはあるが、いろいろと知らないことが書いてあるのは非常に参考になった。


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2009年10月14日

続けて「才子佳人」について

さかのぼって考えるとたとえば、「浮雲」で内海文三が本田昇から「明治年代の丹次」と言われて怒る場面があるが、これは彼自身が自分のことを「才子佳人」物語の主人公としてとらえていたからではないだろうか。この場合、「佳人」は当然お勢が担う役割ということになる。

しかし、実際のところ彼女は不遇の身になった文三を支えることもなく、また文三に対して操を守り続けることもなく、本田昇に籠絡される。
彼女は文三と違って「才子佳人」物語を自分の行動規範とはしていなかったことになる。
では、彼女が依拠していた物語は何なのか?

「才子佳人」物語を内面化する登場人物たち、という軸で近代初期の小説を読み解いていく、というのがモチーフとして浮上しつつある。

〈自然主義〉の登場・隆盛は、「才子佳人」物語からの登場人物の解放であり、竹中時雄、岸本捨吉はその過渡期に属する主人公達なのではないだろうか。

まずは模範となる「才子佳人」物語を複数確定する必要がある。
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2009年10月01日

「才子佳人」のパロディ2

後期の大学院の授業は、初期自然主義と同時期の〈通俗小説〉を読むことにした。
まずは、有名どころで、また容易に文庫本で手に入る「金色夜叉」から。

しかし、あらためて読むとこれも、「才子佳人」物語のパターンをふまえつつ、本来金持ちからの誘惑をはねつけるはずの「佳人」がやすやすと心を動かしてしまう、という外しが行われていることに気づかされる(ヒントにした「女より弱きもの」の影響もあるだろうが)。

それにしても、やはり貫一の造型はずいぶんとエキセントリックで、それに対して宮の方が言いがたい思い(内面?)を抱いているように読める。
語り手と登場人物の距離感が場面によって変化しており、授業の中でそれは田山花袋の「少女病」や「蒲団」にも受け継がれているのではないか、というような話になった。

そういう自在な距離感を喪失したのが、どうやら大正期の「自然主義」(そこには白樺派の作家達も含まれるのだが)の小説らしい。
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2009年09月01日

「才子佳人」のパロディ

相変わらず田山花袋の「蒲団」を書く前の小説を読んでいるが、ここに登場する男女を「蒲団」の田中秀雄と横山芳子に重ねて読むこともできるだろう。二人もまた出会うなりお互いを見初め恋愛感情を持つようになるのであり、周囲の状況によってその恋愛がうまくいかずに終わるという点も共通している。

周囲の反対に対して二人がどのように考えているかということは直接描かれることはないが、あたかも自分たちが「才子佳人」物語の主人公であるかのように考えていたのではないだろうか。つまり、田山花袋がかつて書いていた小説の登場人物たちの心情をその〈空白〉に代入することが可能であるということだ。

中村光夫「風俗小説論」は、「蒲団」の主人公竹中時雄(中村はこれを田山花袋自身としたが)は戯曲「寂しき人々」の主人公に成りきったつもりでいる、と評したが、主人公に成り切った複数の登場人物によって従来の物語を相対化した小説としてとらえることができるわけである。
posted by kuwabara at 16:58| 大阪 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする