2009年05月24日

メディアとリアリズム

現在大学院の授業で「自然主義」に分類されている小説を読んでいる。最近「自然主義」という用語があたかも一枚岩で多様性を持たないもののように、かつイデオロギーがそのままテクストに反映しているかのように扱われていることに違和感を感じ続けているからだ。実際、院生も「自然主義」の実態というのがわからなくなって混乱しているようなので、一応は当初の目的を適えていると言える。



この本の『恋空』を論じた第七章でも、東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』を参照しつつ、いかに従来の「自然主義的リアリズム」から離れた「透明」ではない表現になっているのかが述べられている。
「自然主義」=「透明」という前提が間違っているのはさておき、『恋空』のように「支離滅裂なストーリー展開」を持った小説自体はずっと昔から書かれ続けているわけで、それらにも現在の「操作ログ的リアリズム」にあたるような同時代の社会での「リアル」を支える「リアリズム」があったのではないか、という問いを立てることは可能なのだろう。
つまり、小説内に登場するメディアの「リテラシー」の水準に注目することで新たなとらえ方ができるのかもしれない、ということだ。

もちろん、「リアル」でなければ小説は多くの読者に受け入れられない、という先入観自体を批判することを忘れてはならないのだが。
posted by kuwabara at 21:39| 大阪 ☁| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「最近「自然主義」という用語が、、、違和感を感じ続けている」はまったく同感です。
Posted by hinonaname at 2009年05月29日 08:17
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