2019年08月31日

1990年の大嘗祭

新聞データベースで見つけた前回の「即位の礼」「大嘗祭」、それらに反対する人々の記事を読み直しているが、「政教分離」をうたった日本国憲法下での「大嘗祭」の扱いについて対立する意見が強調されている印象である。
天皇が神と一体化し神格が宿る儀式なのか、即位を報告し国の安寧と五穀豊穣を祈るだけの儀式なのか、という二つの意見が出て、本来は後者だったのが戦前・昭和初期に前者の見方が後付けされただけだ、という見方等を参考にしつつ宮内庁が後者を採用し、前者を否定することになった。一方で「宗教上の儀式」である、つまり信者ではない人から見れば「迷信」だということは認めているのであった。

その点、今回は前回を踏襲すればいいので主催する人たちは楽そうだ。過激派も活性化していないし。

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そういえば、今回の改元・践祚の際に、皇室の先祖である天照大神みたいな言い回しをしたメディアが批判されていたが、29年前も『毎日新聞』が「皇祖・天照大神と天神地祇」と書いていたり、読売新聞も「新穀を皇祖と八百よろずの神々に供え」と書いていたりする。
他の記事で紹介されていた宮内庁の文書に「皇祖及び天神地祇」と書いてあるので、おそらくそれををふまえているののだろう。今回もそんな流れで引用感覚だったのかもしれない。

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2019年08月30日

1990年の過激派

新聞記事データベースで1990年の即位の礼・大嘗祭をキーワードにして検索をかけてみると、かなりの数の反派の集会や、反対する過激派の爆弾テロの記事が出てくる。迫撃弾まで撃っている。
同時代を生きていたはずなのに、よほどボーッとしてたのか、すっかり忘れていた。
覚めた目で見る若い世代も多い、という記事もあるので、おそらくそのうちの一人だったのだろう。

さて、「燃えあがる緑の木」の主人公(というにはいささか影が薄いのだが)「新しいギー兄さん」こと隆は大学時代過激派組織のメンバーで、そちらがらみのトラブルを避けるために谷間の村で生活していた、という設定になっている。
また、「燃えあがる緑の木」の教会を始めた後、昔の仲間に襲撃されて傷を負ったりもしている。

1990年の中核派などの運動の活発化がなければ、この隆の造形はなかったかもしれない。
もちろん、過激化した学生運動自体は『河馬に噛まれる』連作や長篇「キルプの軍団」で取りあげられているのではあるが。

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2019年08月29日

1988年の「迷信」

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昭和の終焉 1989・9−1989・2 天皇と日本人 /朝日ジャーナル編集部(編者)

前回の改元前後のメディアでの取り扱いを確認しようと思って、いくつか古い本を借りてきた。
既に当時から、天皇を人間として扱う見方と、人間以上の特別な存在として扱う見方とが共存していることを指摘する声はあったのが確認できた。しかも、それが真っ向から対立するのではなく、自分たちと違う立場があるのも理解しております、というようなゆるい共存だったのである。

『朝日ジャーナル』1988年10月7日号に掲載された「過ぎゆく「昭和」の光景」という記事には、名物右翼(大江健三郎「セブンティーン」にも彼をモデルとした「右翼」が出てくる)の次のような発言が紹介されている。

九月二六日

 大日本愛国党の赤尾敏総裁(九〇歳)は東京・大塚の自宅にいた。玄関わきに「天皇陛下御平癒祈願」の垂れ幕。
「数寄屋橋の街頭宣伝は、病気がお悪いと聞いてからやめている。親が病気なのにその枕元で演説するというのもおかしいでしょう」
 二一日に、「迷信」と笑うかもしれないが」二重橋と明治神宮へ行き、天皇の回復を祈ってきた、という。


自分の祈念する行動を「迷信」として笑う人がいる(特に『朝日ジャーナル』の記者ともなれば、そうだろう)ことをふまえつつ、しかし自分の行動の正当性について疑ってはいないという態度である。

しかし、臣民は天皇の赤子という主張はわかるが、結果、子の方が年下という奇妙なことにもなっているのだった。

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2019年08月28日

元号の替わり目の物語

ちょっとしたミスでデータにすることができないでいた大岡昇平「狡猾になろう」(『群像』1985年8月号)の使いたいところを取りこんだ。

 以来、様々の流派の消長があったが、もはや戦後ではない、といわれると癪にさわって来た。私は戦後四十年といって、切りのいい数字だから何か一区切りのようにいうのには反対である。歴史を天皇在世で区切ることにはむろん反対、一〇〇年一世紀に切るのも反対だ。社会に重大な変化の生じた年で切るべきで、戦後でいえば二十七年の単独講和、三十五年安保の反対運動、三十九年オリンピックと高度成長のピーク、四十八年の石油ショックというように、「時間」ではなく「コト」で、区切るべきだ、と思っている。
562-563頁


身も蓋もない冷静な見方だが、メディアにはそういう区切りが必要だったりするわけである。このエッセイ自体が「私と「戦後」 戦後四十年目に」という特集の依頼に応じたもので、まあ、こういう批判が出ることも編集者は織り込み済みってことだろう。

意味が無いとわかっていても意味があるかのようにふるまう、意味があるものとして書くということがメディアにおいては必要とされており、ではどういう物語を選んだのか、というところに検討の余地があるのだった。
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2019年08月27日

様々な「迷信」

以前、「なにもしてない」に出てくる「迷信」という言葉についてふれたが、一箇所だけ、「接触性湿疹」に苦しむ「私」が「民間療法」を試してみた、という話の後に以下のような記述があった。

 ひとりで生活し夢や幻想にのめり込むようになってからの私は、思い込みの激しい人々ならば霊現象と呼ぶかもしれない状態に結構遭遇していた。だがそれらの多くはただの悪夢の領域に止まっており、また幻覚にしても予備知識がなければ出てこられない程度のものばかりだった。怖くはなかった。霊という文化に刃物やお経という文化がよく効いたりするところが我ながらマヌケだとは思ったのだが、自分の知らない心の底の方でコントロールの出来ない迷信がうごめいている状態には興味が湧いたのだった。外界に手が出ない分内面に行った。
 生きている限り、どこかに住まなくてはならないという類の理性は保たれたままで、ここ数年、私は幻への逃避とたえまなく戦っていた。例えば、予知夢、など信じてもいないのに利用していた。 そしてその信じ方は無意味にただ屈折するのだった。
 夢が当たるのは単純な意識下のシミュレーションに過ぎないと自分に言い聞かせ、信仰に入ったり神秘主義に溺れたりした覚えはない。デジャビュでない事は夢日記を見れば明らかだったが、うのみにはせず、そのくせ一応心には留めておいた。もっとも、どうせ夢の象徴などというものはどんな風にでも解釈が出来た。


「迷信」であると「理性」ではわかっているし、様々な知識に基づいて否定してみるが、どこか「心」に引っかかった状態から逃れられない。
この「私」の状態が、当時の、そして現在の皇室を見る多くの人々の視線と共通しているわけである。

『笙野頼子 〈現代女性作家読本〉』(鼎書房、2006年)という本を借りてきて「なにもしてない」を論じているところを読んでみたが、天皇制と結びついてはいなかった。
他の小説を論じたところも念のため読んでみる。
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2019年08月26日

「顕教と密教」説の元祖

先月戦前の天皇制の「顕教と密教」についてふれたが、一番最初にその説明をした本を念のため読んでみた。
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現代日本の思想 その五つの渦 岩波新書/久野収(著者),鶴見俊輔(著者)

60年以上前、1956年に出版された古典的名著というやつで、細かい記述についての記憶は曖昧だったが、だいたい把握していた内容のとおりだった。
「IV  日本の超国家主義ー昭和維新の思想ー」の「天皇の国民、天皇の日本」という節より引用しておく。

 第二に、天皇は、国民全体にむかってこそ、絶対的権威、絶対的主体としてあらわれ、初等・中等の国民教育、特に軍隊教育は、天皇のこの性格を国民の中に徹底的にしみこませ、 ほとんど国民の第二の天性に仕あげるほど強力に作用した。
 しかし天皇の側近や周囲の輔弼機関からみれば、天皇の権威はむしろシンポル的・名目的権威であり、天皇の実質的権力は、機関の担当者がほとんど全面的に分割し、代行するシステムが作りだされた。
 注目すべきは、天皇の権威と権力が、「顕教」と「密教」、通俗的と高等的の二様に解釈され、この二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、伊藤の作った明治日本の国家がなりたっていたことである。顕教とは、天皇を無限の権威と権力を持つ絶対君主とみる解釈のシステム、密教とは、天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる解釈のシステムである。はっきりいえば、国民全体には、天皇を絶対君主として信奉させ、 この国民のエネルギーを国政に動員した上で、国政を運用する秘訣としては、立憲君主説、すなわち天皇国家最高機関説を採用するという仕方である。
 天皇は、国民にたいする「たてまえ」では、あくまで絶対君主、支配層間の「申しあわせ」としては、立憲君主、すなわち国政の最高機関であった。小・中学および軍隊では、「たてまえ」としての天皇が徹底的に教えこまれ、大学および高等文官試験にいたって、「申しあわせ」としての天皇がはじめて明らかにされ、「たてまえ」で教育された国民大衆が、「申しあわせ」に熟達した帝国大学卒業生たる官僚に指導されるシステムがあみ出された。
131-132頁


非知識人(「国民大衆」)と知識人(「帝国大学卒業生たる官僚」)とで二つの天皇観、二つの国家観が分け持たれているというのが、この説のポイントである。
現在の状況は、誰もが「シンポル的・名目的権威」であると憲法に記され、また多くの人が考えているが、そのレイヤの上にうっすらと「権威」と見なすレイヤが重なっている、と考えられる。
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2019年08月25日

熱狂と冷静

6日前に、「即位の礼」がいかに大きなメディア・イベントであるのか、ということを述べたが、一方で次のような冷静な見方もあるのだった。

また,集中的になされた天皇報道に対して,国民がさめた対応を示したことも見逃がしてはならない.天皇死去直後の1月7日と8日にかけて,各テレビ局は通常の番組編成をやめて,天皇関係の特別番組を放送し続けたが,各局には,これに対する抗議電話が殺到したし,見る番組がないと感じた人々によって,レンタルビデオの店が盛況となった.新聞社の世論調査によれぽ,「さきの天皇のご容体が悪くなってからこれまで,約4か月間の世の中の動きについてあなたはどう思いますか」との問いに対して,「国民感情の白然な表れだ」とする人は28%にとどまり,57%の人が,「マスコミの騒ぎ過ぎだ」と答えている(『朝日新聞』89年2月8口).さらに,天皇制の草の根の動員力にもかげりが見え始めている.過熱したマスコミ報道にもかかわらず,大喪の礼当日,天皇の枢を皇居から会場の新宿御苑まで運ぶ葬列を沿道で見送った人の数は約21万人,即位の礼当日に行われたオープンカーでのパレードを見るために集まった人の数は約12万人と報道されている.59年4月10日に行われた皇太子明仁と美智子妃の成婚パレードの際には,53万人が沿道を埋めたことを考えるならば,この間の変化は明らかである.


原武史・吉田裕編『岩波 天皇・皇室辞典』の「改元」の項目である。
最後の成婚パレードとの比較については、いや、テレビで見ていた人が多かっただけだろう、視聴率とか調べたの? とツッコみたくなる。
前にも引用した疋田雅昭「逃走あるいは溶解する境界――笙野頼子「なにもしていない」をめぐって―― 」にも次のような記述がある。

 西側第二位の経済大国の威信を誇示しながらも、開かれた新しい皇室をアピールする、一五八の国と機関の代表が臨席した「即位の礼」と「大嘗祭」は、皇室の伝統に即して、大正天皇や昭和天皇の時のものを修復・修理したり、伝統的技術の衰退から多くの苦労を経て実現された。
さらにこの数年の間の皇室行事の多くは、多くの国民にとって一生で何度も経験出来るようなものではなく、その分、国民の関心は、細かい部分にまで寄せられており、 こうした形式性への精緻な拘りが、テレビによるライブ中継映像とその解説によって後押される形になった。


だが「マスコミの騒ぎ過ぎ」という反応を指摘しているのは重要である。そのような発言をする自由も当時は一応あったわけだ。
とはいえ、その「騒ぎ過ぎ」を誰も止められず、どう感じているかは関係なく巻きこまれているという事態が問題なのである。



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2019年08月24日

小説と事件

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私という小説家の作り方 /大江健三郎(著者)
大江健三郎が「燃えあがる緑の木」三部作についてどういう自作解説をしているかと思って読み直してみた。

 そのうちブレイクの神秘思想は、この連作に引用した範囲で私を惹きつけるにとどまらなくなり、『新しい人よ眼ざめよ』からはみ出して茂った。その豊かな枝葉のもとで、私は次の読書の対象にダンテを、さらにイェーツを選ぶことになった。そして十年ほどの時がたち、私はダンテに支えられながら『懐かしい年への手紙』を書き、イェーツに鼓舞されて『燃えあがる緑の木』を書いたのだった。
六章 引用には力がある 3

『燃えあがる緑の木』は、さきのギー兄さんの甦りとしての新しいギー兄さんを、フィクションの世界から現実の世界へ迎えなおして進行しはじめた。まずそれは小説の書き方の手法の問題だったが、いまやこの方法をつうじてしか、現実世界を生きる私に魂の問題を追いもとめることができなくなっている、ということなのだった。私の小説家としての人生が、その転倒したかたちを固定化させてしまったわけなのだ。
八章 虚構の仕掛けとなる私 4


『私という小説家の作り方』は1996年から1997にかけて新潮社から全10巻で出た『大江健三郎小説』に発表されたもので、彼が何を読み何を考えて小説を書いてきたかを語ったエッセイである。
なので、現実の事件との関係みたいなものは、少年時代の敗戦の体験くらいしか出てこない。

そのかわり「神秘思想」が「はみ出して茂った」とか「フィクションの世界から現実の世界へ迎えなおして」とか使えそうなフレーズがあるのだった。
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2019年08月23日

自由のレイヤと禁忌のレイヤ

『1980年代』の終盤を読んでいたら、社会の異なる側面がレイヤとして重なり合って共存しているというようなメタファが出てきていた。

編著者2人と高橋源一郎との鼎談「文学・カタカナ・資本主義」より。

成田 今だったら、セキュリティの問題が完全にそうなっています。監視カメラは絶えずぼくたちを監視し、ぼくたちは不断に監視されていて窮屈なはずなんだけれど、そのカメラによって犯人が映っているなどと、逆転ー転倒が平気でまかり通っている。
高橋 みんな望んで抑圧されようとしてるんですよ、もはや。
斎藤 ほんとですよね。抑圧されたいんだよね。
高橋 その転換点ですよね。豊かになるっていうことは自由になるってことじゃないですか。その裏で抑圧が見えなくなるっていうことでもある。資本主義自体は変わっていないから、搾取はされているはずなのに、少なくとも目に見える搾取じゃなくなったとき疑似的な自由を感じて、 いわば父がみんないなくなったんですよね。
斎藤 そういうことで言うと、八〇年代はまだ目に見える抑圧がとれたばっかりだから自由で楽しいんですね。
高橋 そうそう。自由感があるよね。
斎藤 そのあとになるとある種日常化していき、経済が悪くなっていったりすると……
高橋 もう一回抑圧が再開されているんじゃないかと思っても、 見えないから。
成田 だから、江藤淳の『自由と禁忌』は今までの延長でその問題を考えようとしたけれど、そうはいかなくて……
斎藤 『自由と禁忌』 ってそう思うといいタイトル。
成田 まったくこの通りに、ことが進行しているように江藤には見えたのですね。
斎藤 この通りですよ。
成田 しかし、いまや禁忌は自由と対立するのではなくて、自由の中に禁忌が取り込まれてしまっている。
高橋 そのほうがややこしいですよね。
成田 ややこしいですよね。自ら進んで禁忌を求めるという倒錯が、さっきの監視カメラのように起こってきています。
364-365頁


自由と抑圧、自由と禁忌が対立するのではなく同じ事象の中に重なり合っているというのは、当然天皇・皇室についても起こっているわけである。
彼らについて語るだけではなく、もちろん彼ら自身も。
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2019年08月22日

イベント化しオカルト化する天皇交替

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岩波 天皇・皇室辞典 / 原武史・吉田裕編

1990年の新聞・雑誌を見る前に、歴史学の観点から記述されたものを確認してみた。

「なにもしてない」で、「即位式そのものには明治以後の新しい部分が多かったらしい。」という記述があるのだが、この事典の「柳田国男」の項目(原武史執筆)によると、「ひそかに書かれた「大嘗祭に関する所感」の中で,柳田は即位礼と大嘗祭という性格の違う2つの儀礼が続けて行われたことを鋭く批判」しているという。その理由は「秘儀である大嘗祭」が「即位礼から続くお祭り騒ぎの最中に行われ」「原始の形式」(たとえば「物忌み」)を守っていないことである。

「お祭り騒ぎ」というのは、天皇の交替が国家・国民を巻きこむイベントとして短期間に、関心を失われない、飽きられないうちに行われる必要があったことを突いているのだろう。即位礼から数か月後に大嘗祭というやり方では、スピード感が無いということである。

ただ「即位式(礼)と大嘗祭」(高木博志執筆)という項目によると即位式や大嘗祭が重視されない時代や、大嘗祭自体が行われなかったり、そもそも「灌頂」を伴う神仏習合的なものだったりもしたので、「原始の形式」という言葉自体が彼が批判していた人々とは異なるフィクションに基づいたものだったということがわかる。

その大嘗祭も一応何をしているのか公開されているわけではないので、隠されることで特別なものではあり続けている。
メディア・イベントと「秘儀」が同時に行うことで、天皇の二つの層を同時に機能させることができるのである。
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2019年08月21日

天皇と共に亡くなった人たち

昨日裕仁天皇の死にはふれてなさそうと書いた『1980年代』だが、中盤の平野啓一郎×斎藤美奈子×成田龍一「地方・フェイク・へるめす」(初出『文藝』2015年夏号)まで読んだら、出てきた。

成田 平野さんは、「昭和の終わった日」を覚えていますか 。
平野 はい。実はその年、祖父が亡くなったんです。天皇の死とわりと近い時期でした。祖父はビルマに戦争に行って帰ってきた人だったんです。僕にとっての戦争体験はほとんど祖父から聞いた話でし た。その祖父が亡くなって、昭和天皇が亡くなって、自分の中で昭和が終わった。それは少年ながら感じていましたね。
成田 平野さんの中に、戦争経験の伝承があるということになりますね。記億の中で、大きな位置を占めていましたか。
平野 ありますね。僕が子どもの頃には、特攻隊の話よりも、『ビルマの竪琴』とか、ジャングルの中で餓死して……というような話が今よりももっと描かれていた。
(209頁)


あくまでも個人としての裕仁の死についての言及ではある。この後、亡くなった祖父と大岡昇平の共通点という話も211頁に出てくるのだが、大岡昇平も死後発表された原稿で天皇が病床にいることを「おいたわしい」と言っていたが、これも現人神ではないただの人として扱ったものである。

しかし、メディアの扱いはそうではなくて、という風にもっていく予定で、たとえば当時の新聞の記事を参照せねばならない。
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2019年08月20日

西暦区分の優位性

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読み始めたが、裕仁天皇の病気と死の過程について言及した論は無さそう。やはり西暦で区分すると、1988年と1989年の間に生じた事態は薄まるのだろうか。

ただ、反・原発の話は冒頭の鼎談にも出ているが、終末的な幻想(迷信)が蔓延っていたことで関連づけられそう。

大澤真幸がずっと言っている1970年代後半から1995年は「虚構の時代」という主張自体は、虚構の種類がそれ以前・それ以後で違うだけでは、と思っているが、種類の違いを言うのに「迷信」という言葉を使うことはできるかもしれない。
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2019年08月19日

迷信としての天皇制

「なにもしてない」を論じた論文、疋田雅昭「逃走あるいは溶解する境界――笙野頼子「なにもしていない」をめぐって―― 」(『明星大学研究紀要-人文学部』第 54 号 2018 年 3 月)を読んだ。

ここで「即位式」 に対して「八王子旧バイパス」周辺が警戒地域にあたっているのは、昭和天皇が埋葬 される武蔵野陵墓地が、高尾駅から一・五キロほど北上したあたり、国道二十号線と 中央高速道路の間に位置しているからである。このバイパスは、宇都木町に至るまで の国道十六号線のそれに当たるので、まさに重要な警戒地域だったのである。


このように一昨日ふれた武蔵野陵についての言及もあるが、なにしろ小説発表から四半世紀以上経って書かれた論文なので、微妙な近過去がいかに現在と異なっているかを説明せねばならなかったりするのであった。

こちらの関心にかかわることでいうなら、次のような「なにもしてない」の記述が引用されていたのがハッとさせられた。

霊という文化に刃物やお経という文化がよく効いたりするところが我ながらマヌケだとは思ったのだが、自分の知らない心の底の方で、コントロールの出来ない迷信がうごめいている状態には興味が湧いたのだった。外界に手が出ない分内 面に行った。


語り手「私」の「心の底」に「迷信」があるだけでなく、彼女が「接触性湿疹」を病んでいた同じ時に日本も天皇という「迷信」が跳梁していた訳である。

この論文では「即位式」がどれだけ巨大なメディア・イベントであったのかについて言及し、どのように当時の状況を「なにもしてない」が批判しているかを論じているが、さらにイベントとして消費されつつ「迷信」としか言いようのない、神の子孫としての天皇という言説が自明のこととして社会に侵食したということも合わせて考えねばならない。。

「即位の礼」は、昭和三年以来、六二年ぶり。予算規模こそ、「昭和」の一六二四万 円(一九八九年との差を勘案しておよそ二二〇億円)と「平成」の六九億円は大きな差 であるが、その分テレビによる全国中継による視聴者の数は、「昭和」のパレードを 直接見に来た一一〇万人を遙かに凌駕した。
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2019年08月18日

「燃えあがる緑の木」とオウム真理教との関係?

「「燃えあがる緑の木」の教会」についてオウム真理教との関係で語られることが多いと書いたが、その一例である尾崎真理子による大江健三郎のインタビュー『大江健三郎 作家自身を語る』(新潮社、2007年)には次のようなやりとりがある。

 ―『洪水はわが魂に及び』は連合赤軍事件、『燃えあがる緑の木』三部作はオウム真理教事件をまるで予告したような側面の強い小説でしたが、どうしてそのような予知的な主題が大江さんの中で湧きあがってきたのでしょう?

 きみには、予知能力があるんじゃないか、そして不幸なことについては実際それが起ってしまうようじゃないか、と親しい友人にカラカワレルことはありますが、その能力がないことは自分で知っています(笑)。自分に対してのみならず、他人についてもそういう力がありうるとは信じていない。
 一つの問題をずっと考え続ける、自分自身の個人的な手がかりを通じて、それこそ十年問毎日考え続ける。そうすると何となく、自分がずっと考えていまに至っているその考え方の勢いで、いくらか今より前に出て行くことがある。それが私の、想像力というものの核心をなすものだという思いはあります。小説家は自分自身がずうっと考え詰めて現時点まで来て、そこからぽっといくらか前に出ることを書くものだと、そんなふうに考えてはいる。そのようにしていままで小説を書いてきました。それが近い未来に起こってしまうことと重なる、ということは、時にありうるでしょう。


よく読むと、二つの小説とその直後にあった事件について関係があるとはこの回答では言っていない。というか、言っていないが、そうとらえさせるように誘導しているようにも読める。

この前の箇所では、オウム真理教が出てくるのだが、それも自身の小説に直接反映したものとは語っていないのだった。

(前略)私がいつも感じたのは、大きい宗教……本当にわれわれの全体を掬い取ってくれるような、ある時代のキリスト教のような、ある時代の仏教でもいいのですが、そういう大きい宗教があるところと、それがないところでは、すっかり違う! という嘆息のようなものでした。日本でも、全人口の一パーセントのキリスト教徒はいられる。かつ文化的にはずっと大きい仕事をされていますが、仏教をふくめ、日本にはいま、大きい宗教というべきものはない、と私は考えています。
 (略)
 そして私は、このセルフメイク、自分の力で何とか自分自身を作り出そうという考え方、自分の力で歴史を作るという考え方は、現代日本の多くの若者にも現に見える態度であって、その一番過激な典型が、学生運動家の生き方ではないだろうかと考えた。そのなかで傷ついて、行き詰まっている人たちが、救いを求める際、日本では大きい既成宗教がないとすれば、たとえばオウム真理教のような新しい教団が、強い吸引力を持つのではないか、と。そのような青年たちがひとつのグループを作り、悲劇が起こり別れて行く、というのがこの三部作の主題の流れです。


現実で起こった運動・事件と、自身の小説に登場した集団は同じ基盤に立っている、と、ここも微妙に関係があるかのように語りつつ、関係があるとは明言していないのだった。

「日本にはいま、大きい宗教というべきものはない、と私は考えています」というのは、改元・天皇の交替の際に、天皇への強い崇拝ということを感じてしまったのを否認したのではないか、という推測も可能だが、それは言い過ぎだ、ということに今はしておこう。

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2019年08月17日

「なにもしてない」における天皇

三日前にふれた『笙野頼子 虚空の戦死』を読んでいると、当然参考にできるところと、叩き台にできてしまうオヤオヤというところがあるのだった。

 この小説では「接触性湿疹」 と「天皇即位式」とが見方によっては隠喩的関係として、じつに効果的に働いている。「接触性湿疹」の悪化は、日ごろ世間と接触せず、またこれまで ずっと世間から受け容れられないできた「私」の生活が、その非接触のピークに達したときに現れる。「天皇」 はもちろん、その遠い世間や社会のさらに奥深い閉ざされた対極で「ナニモシテナイ」存在であって、そういう「天皇」 一家との偶然のニア・ミスは、「私」の非接触生活の極限との、また皮肉な対照的事件となっている。
(93頁)


たとえば「なにもしてない」を論じた章のこの引用の前半は使えるのだが、後半の天皇が「「ナニモシテナイ」存在」であるというのは認識がぬるいだろう。もちろん、政治に関われないという意味では「シテイナイ」のだが、天皇がどれだけ人前に出て「象徴」としての機能を果たしてきたのか、ということを考えねばならない。
逆に、メディアに頻繁に登場し、本当は様々なことをしているのに「シテナイ」と思いこまれている存在という意味で語り手「私」と天皇とはよく似ているのである。

 皇居を中心とした首都圏から留保的に外へ離れた八王子という土地に「私」が住んでいるということも、 この作品の一貫した"距離"の取りかたと交響している。「ナニモシテナイ」両極の主体を軸にして、「内ーと「外ーが反転した世界が、そこからは見えてくる。
(94頁)


ここでは八王子には昭和天皇を埋葬した武蔵野陵があることにふれなくてはならないところである(もしかしたら「留保的に」というのはその件に関してなのかもしれないが)。実際「前にも大物がひとつあったが、あれの時などは家のすぐそばを通るというので随分不思議だった。」という記述は、1989年2月24日の「大喪の礼」のことを指しているはずだ。

詳細は論文に書く予定。

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2019年08月16日

譲位のパロディ

天皇の交替、譲位についての儀式について調べていると、そのオカルトっぷりに正直呆れる。
で、大江健三郎「「救い主」が殴られるまで」(1993年)で描かれたおよそ稚拙としか言いようのない「ギー兄さん」の名前の継承が、天皇の譲位のパロディになっているというアイディアにいたった。

新興宗教を描いているということで、既にこの時期盛んに活動していたオウム真理教との関連で考えられたりもする「「燃えあがる緑の木」の教会」だが、実際は皇室とそれを尊崇したり、また反発したりする日本人との関係で書かれているのではないか。

連合赤軍との関連で語られがちな「洪水はわが魂に及び」(1973年)の「自由航海団」が、実は三島由紀夫率いる「楯の会」のパロディとしても読めるように、一つだけの見方に限定する必要は全く無いのである。
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2019年08月15日

オカルトと現実

一昨日書いた天皇という存在のレイヤ性について、「なにもしてない」を読み直したところ、次のような記述があった。「接触性湿疹をこじらせた」語り手「私」は家にこもってテレビで「即位の礼」を見る。

 スイッチを付けると即位の礼の中継をしていてナンダコレガアッタノカ、とふいに元気になった。皇室信者ではないがこの関係は見る。前にも大物がひとつあったが、あれの時などは家のすぐそばを通るというので随分不思議だった。どの行事も幻想と現実が交錯しているようでついつい見た。だが気になるのはその感触だけで具体的な方面にはむしろ違和感しかなかった。長くて退屈だろうとは思うのだが、後からニュースというのは気にいらなかった。現にしているところを同時進行で見、現実にその場にいるような錯覚を持ちたかった。それをするというので三連休になり、医者も休みだ、というと、それが国家的行事で、私がこの国のコクミンなのだというなまなましい感触が強くなった。


詳細はまた論文で論じることになるが、「幻想と現実」の二つの層が様々な形で一つの存在の表面で重なり合っていることが繰り返し記述されている。
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2019年08月14日

日本社会と天皇を取り上げる

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笙野頼子 虚空の戦士 / 清水良典

参考文献として上記の本を読んだら、当然のこととして「なにもしていない」が天皇を主題とした小説として論じられていた。
うまく利用したいところだが、どのくらい新見を出していけるのか、メディアとか世界のレイヤとかかなと思うのだが、どうなるだろうか。
posted by kuwabara at 20:26| 大阪 ☁| Comment(0) | 戦後文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月13日

大量生産と稀少性

ずっと『作者のひみつ(仮)』に関して、大量生産・大量流通・大量消費の産業資本主義の社会における作者の条件ということを考え続けてきたわけだが、もう一方の「天皇の死と交替」に関して考えているうちに、天皇や皇室の価値は大量生産されない稀少性にこそ見いだされてきた、ということに気づかされた。
昨日書いたオカルト的迷信的な存在としての天皇というのも、他にそんな特殊能力を持った存在がいないと見なされてきたからだし、また一応一人しかいない(かつて二人いたこともあったが、こちらが正統という判断が下されて無いことにされた)というのももちろん稀少性である。

もっとも近代の天皇制がその時代の主力であるマス・メディアを活用して、「国民」にその存在をアピールし、自明な存在になってきたということも同時にある。
つまりイメージが大量生産されて消費される一方で、別の形で稀少性を担保しようとしてきたのが、近代の天皇と皇室だということになる。

きちんと検証していない、直観的なものだが、「文化天皇」とか「黄金天皇」というのは、稀少性を強調した発想なのかもしれない。

『なぜ天皇は滅びないのか』と『レストレス・ドリーム』とを読み終えて、この二つが組み合わさって思いついたのが、オカルト的な稀少性と、消費される有名性というのは、二面性とか矛盾として天皇の中にあるのではなく、レイヤとして重なり合っているものではないか、ということである。
『レストレス・ドリーム』の「私」が見る夢または桃木跳蛇を主人公とするゲーム「魔鏡マンダラ」は、現実の別世界・異世界ではなく、現実と重ね合わされた別レイヤである、という読み方をしたのがきっかけである。

複数のレイヤの重なり、というイメージで、従来の天皇制の顕教と密教というのとどう変わってくるのか、もっと考えねばならない。

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2019年08月12日

迷信の国

昨日の続きの作者の肖像写真の章は、内容が盛りだくさんで途中までしか書けず。やはり章ごとの分量のバランスが悪すぎる、今のところ。

で、三日前にふれた『天皇はなぜ滅びないのか』について。
やはり、近代になる前、特に中世・近世の武家政権と天皇や公家との関係がメインの話であった。天皇が武家の権力を保証する存在として重要視されていた、という主旨で、後半はそれだけではなく様々な文化を引き受けるブランドとして天皇や公家たちが機能していたということになる。

つまりはみんな天罰や祟りみたいな迷信に囚われていたということなのか? という気もしないでもない。もちろん坂口安吾なんかも言っている権力者にとって利用できた、都合が良かったということもあるのだろうが、この本によるともっと超自然的な恐れを抱いていたように思えてくる。
堕落論 (角川文庫) [ 坂口 安吾 ] - 楽天ブックス
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「日本国の象徴」という憲法一条の文言もなんだか、幽霊めいたオカルトな存在にみえてくる。
posted by kuwabara at 22:12| 大阪 ☁| Comment(0) | 戦後文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする