2019年07月31日

天皇の死と交替、時代の区切り?

というようなタイトルの論文で取りあげるかもしれない作家たち。

大岡昇平 1909年(明治42年)〜1988年(昭和63年)
後藤明生 1932年(昭和7年)〜 1999年(平成10年)
大江健三郎 1935年(昭和10年)〜
村上春樹 1949年(昭和24年)〜
笙野頼子 1956(昭和31年)〜
松浦理英子 1958(昭和33年)〜
島田雅彦 1961(昭和36年)〜

生年について言えば、大岡昇平と後藤明生の間に23年間あるので、もう一人1920年前後に生れた作家を入れれば埋まる感じがする(なぜ埋めなければならないかは不明)。

1919年生まれだと、金子兜太とか黒田三郎とか宗左近とか水上勉とか吉岡実とか。
1920年生まれだと、阿川弘之とか鮎川信夫とか石垣りんとか内村剛介とか近藤啓太郎とか塚本邦雄とか萩原葉子とか安岡章太郎とか。
1921年生まれだと、小峯元とか五味康祐とか庄野潤三とか寺内大吉とか。

小説だといわゆる「第三の新人」の名前も出てくるが、該当するとされる他の小説家は、遠藤周作1923年生まれ、吉行淳之介1924年生まれ、小島信夫はいくらか年上で1915年生まれ。

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あと大西巨人が生前の記述のとおり1919年生れだったらよかったのだが、今はすっかり1916年生まれだということになっている(2014年没)。

とはいえ、いいテクストが無ければそもそも取りあげようが無いのだった。

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2019年07月30日

ゾンビ的国民国家

「燃えあがる緑の木」はさすがに長くてすぐにはネタが見つからないので、笙野頼子『レストレス・ドリーム』(河出書房新社、1994年)の表題作(『すばる』1992年1月号掲載)について。
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「親指Pの修業時代」の同時期に雑誌掲載された連作短篇集。最終作の「レストレス・エンド」は「親指P」最終回が掲載された『文藝』1993年冬季号の翌号1994年春季号に発表されていたりする。

語り手がワープロに向かっている間に見る白日夢の話で、彼女はRPG的な世界でゾンビたちと戦うキャラ桃木跳蛇(ももき、とびへび)になっている。

京都を思わせる夢の街にあるゾンビたちを支配している「大寺院」について次のような記述がある。

 ここが大寺院の中心部に当たる、一年中桜の散らない、桜以外には何も見えない場所だ。支配に必要な大衆操作や監視用機器の研究所は、この広大な敷地の桜並木の中に収められている。大寺院といっても特に仏教関係ではなく、あらゆる宗派の混淆した、誰かに都合のいい権力と技術と制度の塊である。が、その都合のいい誰かが実は誰であるか本当のところ大寺院の関係者ももう判らないらしい。もしかしたらそれはもう数百年も前に死に絶えていて、今はただこの制度だけが歯止めの利かない、春の狂気のように自己増殖しているだけなのかもしれないのだった。


「桜」、「あらゆる宗派の混淆した、誰かに都合のいい権力と技術と制度の塊」「制度だけが歯止めの利かない、春の狂気のように自己増殖しているだけ」といった記述は、日本の「伝統」とされるもののパロディっぽい。

 そもそも総てのゾンビはここを支配する大寺院のコントロール下にある。主要なゾンビ達はそこで製造され、そのゾンビに殺されたものの多くがまたゾンビになり、それもまた大寺院のコントロール下に入る。もともと普段から大寺院の洗脳したプロパガンダしか喋らない彼らなのだが、カーニバルやその他の大切な儀式、或いはゾンビの脳では対応出来ないようなアクシデントの時には、脳自体が直接大寺院の支配下に入る場合がある。大寺院の中央に巨大なコンピューターがあり、ゾンビ達の脳がその端末機のように使われるらしい。 いや、もっとも夢の中の事であり、跳蛇自身もそんなに詳しくはないが、普段はゾンビなりに持っている自由意志のかけらさえもその時には眠ってしまうのである。 いや、とはいえ行動。パターンにはたいした差はない。洗脳と完全支配のかすかな違いだけだ。ただ、支配下に置かれたゾンビの場合、その間の記憶は欠落してしまう。


脳を支配されて動員されるゾンビたち。戦争でもいいし、高度経済成長でもいいし、オリンピックでも万博でもいい。またこの小説が発表された当時であれば、天皇の交代をにかかわる行事でもいい。動員され、しかしその記憶を失い、また次の機会も同じように動員されてしまうゾンビ=国民が登場する連作。
星野智幸「俺俺」も連想してしまう。
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2019年07月29日

1990年前後

23日の続き。
「親指Pの修業時代」を読み終わる。
親指Pの修業時代(下)新装版 (河出文庫) [ 松浦理英子 ] - 楽天ブックス
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第2部のCHAPTER 14に〈フラワー・ショー〉の巡業日程が決まらない理由について、
「不景気になったから?」私も訊く。
「それも大きな原因の一つだろうな。(略)」

という会話があるので、バブル景気が終了した後の話ではあるようだ。つまり、雑誌での連載が始まった1991年頃が当てはまるのだが、それを直接示す記述はない。1983年7月発売のファミコンや1989年4月発売のゲームボーイは出てくるけれども、1990年11月に発売されたスーファミがまだ出てきていない、ということくらいか。
当然直接天皇の死と代替わりについてはふれていないのだが、ただ終盤の不発に終わる去勢というのが気になる。作中世界でペニスを失った人は出てこないということについても。

性交にとどまらない人と人の間に生じる親愛な関係や共依存の関係が様々な形で語られているわけで、少し前に刊行されていた『スカートの下の劇場』とも関係づけて読めるだろう。性器や性器のようになった親指を見世物=商品として利益を得る場面もあるし。

『スカートの下の劇場』と大江健三郎「人生の親戚」を並べたこともあったが、トランスセックスの語り手が登場する「燃えあがる緑の木」(1993〜1995年)と「親指Pの修業時代」を並べるとどう見えてくるのか。
「人生の親戚」はベタな「娼婦/聖女」図式の下で書かれていたので、いろいろ厳しそうではある。
posted by kuwabara at 18:45| 大阪 ☀| Comment(0) | 戦後文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月28日

『作者のひみつ(仮)』1章を公開

三日前に公開した序章の続きをまたnoteで公開している。

最後の方で次章で述べると書いた日本の話は、本当は1章に含めたかったのだが、2章との長さのバランスのために移したのである。
2章は、著作権(著作者財産権と著作者人格権)の概説、著作権と作者の特権性、ヨーロッパにおける著作権の歴史、それと同時代である17世紀から19世紀にかけての日本の出版状況、日本における著作権の導入と定着、のような話の流れになる予定である。

こちらは少し時間がかかるかもしれない。
posted by kuwabara at 20:48| 大阪 ☀| Comment(0) | 作者のひみつ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月27日

ベルヌ条約

『作者のひみつ(仮)』2章では、作者の特別な地位と著作権の関係について述べるのだが、日本の著作権法だけではなく最初の国際条約であるベルヌ条約について確認しておこうと思って、ひとまずネットで調べてみた。

WIPO(世界知的所有権機関)のサイトに要約が載っていたが、基本的なことは1886年のベルヌ条約の時点で定められていたことはわかった。

(b) Subject to certain allowed reservations, limitations or exceptions, the following are among the rights that must be recognized as exclusive rights of authorization:

the right to translate,
the right to make adaptations and arrangements
of the work,
the right to perform in public dramatic, dramatico-musical and musical works,
the right to recite literary works in public,
the right to communicate to the public
the performance of such works,
the right to broadcast (with the possibility that a Contracting State may provide for a mere right to equitable remuneration instead of a right of authorization),
the right to make reproductions in any manner or form (with the possibility that a Contracting State may permit, in certain special cases, reproduction without authorization, provided that the reproduction does not conflict with the normal exploitation of the work and does not unreasonably prejudice the legitimate interests of the author; and the possibility that a Contracting State may provide, in the case of sound recordings of musical works, for a right to equitable remuneration),
the right to use the work as a basis for an audiovisual work, ,and the right to reproduce, distribute, perform in public or communicate to the public that audiovisual work.

The Convention also provides for "moral rights", that is, the right to claim authorship of the work and the right to object to any mutilation, deformation or other modification of, or other derogatory action in relation to, the work that would be prejudicial to the author's honor or reputation.


後半に出てくる"moral rights"が著作者人格権と訳されているのだが、"authorship"という単語とか、"the author's honor or reputation"といった言い回しが著作物と著作者を絶対に切り離せないものとして結びつける。
「名誉と声望」か……
posted by kuwabara at 21:40| 大阪 ☁| Comment(0) | 作者のひみつ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月26日

『メディアとしての小説・小説についての教育(仮)』目次案

カテゴリの分類が難しくなるのだが、これまで発表した論文をまとめたものの仮目次を作ってみた。
(割合に従って「戦後文学」にしているが、「1890年代」でも「小説家小説」でもある。


 第一部 メディアとしての小説

エンサイクロペディアとしての小説―幸田露伴と「浮城物語」論争―
メディアとしての小説―一八九〇年の「報知異聞浮城物語」―
「嘉坡通信報知叢談」論―メディアとしての小説―
難民・亡命者の位置 明治期の政治小説から見えてくるもの
軍隊と身体―「挟み撃ち」あるいは「神聖喜劇」―
大江健三郎と自衛隊、その持続性
大江健三郎と原子力、そして天皇制
家庭・〈われわれ〉・民主主義―『新しい人よ眼ざめよ』―
昭和天皇裕仁の死と戦後四十年または五十年(仮)

 第二部 小説による小説についての教育

リアリズムへの悪意―現実と小説の(無)関係―
太宰治「俗天使」論―「聖母」と「私」、「私」と「作者」―
「憂鬱妄想狂」の「一人角力」 「善蔵を思ふ」論
武田泰淳「風媒花」論―「エロ作家」と「プロ作家」―
〈私〉を書くこと―〈戦後派文学〉の継承―
小説と〈私〉―『「雨の木」を聴く女たち』―
小説の教育は可能か―『キルプの軍団』『静かな生活』他―
1970年代の日本の〈小説家についての小説〉について
一九八〇年代の大江健三郎による自身の小説の再利用・再生の方法


第一部最後の仮題のものが、最近ずっと「戦後文学」カテゴリで書いている準備中の論で、9月中旬までに書いてしまう予定である。

それを除くとすべて既発表の論文に基づいており、こちらで読めるのだが、それぞれの部のテーマでまとめ、つなげるためのブリッジ的な文章も必要だし、逆に内容がかぶっているところを省略する必要もある。

『作者のひみつ(仮)』も平行して進めているので、そんなにすぐにはまとまらないでしょう。
posted by kuwabara at 21:08| 大阪 ☀| Comment(0) | 戦後文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月25日

『作者のひみつ(仮)』序章を公開。

7月22日にふれた『作者のひみつ(仮)』の序章ができたので、noteに載せてみた。

noteは、4年半前に全て掲載済だとなぜか思いこんで〈その3〉までで放置していた「『夢野久作の日記』より」の続きもあるので、それもおいおい手を付けていきたいものである。
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2019年07月24日

島村抱月とゾラ

先月の「田山花袋とゾラ」の続きで、評論家として自然主義の主張をリードした島村抱月を読んでみたが、「自然主義は、夫の写実といふ近世の一潮流を併呑して、ますます悪路に入り、遂に科学主義にまで堕せんとせり。仏のゾラ等は之れが代表者なり。」(「囚われたる文芸」『早稲田文学』1906年1月)、「作者の掴んだ所が果たして所謂人間のドキューメントの全文であるか否かは疑問であること、ゾラ等の場合とはかはらぬとしても、それは此の方面に於ける自然主義全体の疑問である。」(「「蒲団」評」『早稲田文学』1907年10月)、「ゾラは欧洲の文學史中最好の自然主義代表者である。」(「文芸上の自然主義」『早稲田文学』1908年1月)というような記述はあるのだが、ゾラは芸術にその身を捧げた的な記述は見当たらないのだった。
小説によって現実を、社会問題を写し出そうとしたというような文言はあるので、いや、それだけではなく小説で収入を得ることも目的としていたのである、という風に話を持っていくことはできそうだが。

ゾラが『ルーゴン、マカール』二十篇の小説は、相補うて一の系統遺傅論であることは言ふまでもない。此の意味で彼れは進化論の真理を目的とした。また彼れの『ラッソモア』は男女が飲酒、色欲、貧困等に圍まれて如何に堕落し死亡し行くかを語るを目的としてゐる。社会問題である。又彼れの作には病的生理現象を説明するを目的としてゐるやうに見えるものがある。又彼れの作は人間を赤裸々にして全く文明の衣を剥ぎ去った原始性。野獣性の者として取り扱ってゐる所が多い。其の結果道徳感上の醜を描いて怪まぬ。肉感的な所も日常卑近の境を材とする所も、景色動植物器具家屋等の自然物を細寫するに筆を吝まぬ所も皆此の條件に合期する。
明治文学全集43『島村抱月・長谷川天渓・片上天弦・相馬御風集』筑摩書房、1967年、54頁


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2019年07月23日

「バブル」的なイメージ2

一昨日の続き、『親指Pの修業時代』第1部まで読み終わる。
〈フラワー・ショー〉についての説明の中で、「地方に行くと、客筋はぐっと庶民的なんですよ。地方企業の幹部連中ばかりじゃなく、地上げ屋とか土地成金にも呼ばれますしね」(文庫版上巻238頁)という記述があって、やはり1980年代っぽくなっている。
もっとも過去の経験の話をしているので、1990年代初頭が作中時間であってもおかしくはない。また「バブル」がはじけてすぐに「地上げ屋」がいなくなった訳でもないし。

ともあれ「バブル」的な接待文化によって〈フラワー・ショー〉が支えられているということはあるのだろう。

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2019年07月22日

テレビにおける「作者」の扱い

昨年度まで講義していた「文学論」では、ある程度作者の特権的な地位について説明した後、マンガ家の諫山創を取り上げた「未来シアター」(日本テレビ系列、2013年5月10日放送)についてふれて、いわゆる「文豪」的な作家だけでなく、たとえ現代の、文学ジャンル以外の作者でも同じように扱われるということを示していた。

「作者のひみつ(仮)」では構成を変えて、「序章 作者のなにが問題なのか?(仮)」でまずこの番組を紹介して、これから作者について述べることを予告する役割を持たせようと考えている。ただ、講義では実際の番組の録画を見せていたのだが、書籍の場合はそれは無理なので、ナレーションの引用と、こんな画像が流れてましたよ、という文章による紹介をするしかないのだった。

しかし、「進撃の巨人」がアニメ化され話題になった頃に作られたこの番組ももう6年前なのだった。原作は一応終わりに向かっているようだが、最終回は「作者のひみつ(仮)」が出るのとどちらが先なのだろうか。

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進撃の巨人(29) [ 諫山 創 ]
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2019年07月21日

「バブル」的なイメージ

短篇集『タイムスリップ・コンビナート』に収録されたあと二つの短篇も読んだが、こちらは作中の時間を同定する要素が無かった。
逆に、「タイムスリップ・コンビナート」が「時代」を明らかにし、かつ時代の境い目という幻想について読者に意識させるテクストだったことが際立っている。

続いて、同じく「平成を考えるための10冊」に入っている松浦理英子「親指Pの修業時代」を読み直し始めた。雑誌『文藝』に1991年から1993年まで連載されていたものだが、作中時間がいつなのかは出てこない(まだ途中までしか読んでいないので、この後出てくるかもしれない。
しかし、冒頭で説明される語り手真野一美の友人彩沢遙子が設立した「恋愛供給会社〈LOVERSHIP〉」のイメージが、1980年代っぽい、もっと言えばバブル期っぽい印象を受けるのだった。

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親指Pの修業時代(上)新装版 (河出文庫) [ 松浦理英子 ]
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2019年07月20日

時代を名づけることの迷妄

昨日ふれた対談で、斎藤美奈子が「平成を考えるための10冊」の一つにあげていた笙野頼子「タイムスリップ・コンビナート」(『文學界』1994年6月号)を同名単行本(文藝春秋、1994年)の文庫版(文春文庫、1998年)で読む。

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タイムスリップ・コンビナート[ 笙野頼子 ]

「昭和」「平成」、「二十世紀」「二十一世紀」といった時代の区切りが意味ありげに言及されている。


 ー出掛けて戴かないと、……二十一世紀ですし。
 それがどうした。そうか、だがもう二十一世紀に入ってしまったのか。恋マグロ二十一世紀、カブキの、題名みたい。
13頁

 ーともかく、です、ね、……うん、まずあなたは普通の事やお洒落な事はしないし、それにいつも変な事件に巻き込まれますよね。それもまともな人間相手に馬鹿な事件を起こし被害者になって騒ぎ立てるし、世間を知らない。特に政治と経済は全然駄目だし、だからそういうすごく変なところを活用して、ともかくどこへでも行って下されば、要するにね、たかが、ほら平成なんですから。
 なにが平成だ、随分言ってくれる、と思いつつもどうでもいいやという感じで聞き流してしまう。
16頁

 ーうーん、選挙、それよりもやはり不況ですからねえ、……不況で昭和というコノテーションですよね、ですから、ほら海芝浦という駅があるんですよ、そこにいきませんか。
 ーえ、何ですって。
 どうも急に変なことを言われたような気がする。
 ーだ、か、ら、海芝浦、うみしばうらっ、ですよ。
 あっという間にテーマが違っている。時代も平成から昭和に戻っているのだろうか……でも、なんだって、それにしても聞きにくい名前である。
22頁

 ーつまりね、そこは高度経済成長の名残の路線なんです。
 私はまた再び動揺した。ブレードランナーなどという外国語よりも、もっとわけのわからない単語が出て来たのだった。高度経済成長など知らないのである。執筆と家計簿の相克の中で、ひたすらこの八年浮世離れした夢小説を綴ってきた身は、円高差益と消費税のあたりまでしか経済史を遡ることができなかった。
27頁


語り手が熟睡しているところにかかってきた正体不明の相手との電話のやりとりがテクストの前半を占めるのだが、相手は時代の変化を理由にして語り手を行動させようとするのだが、語り手はその話を聞けば聞くほど、自分の置かれた状況がわからなくなっていくのである。

時代を名指すことで意味を与えようとする言説のナンセンスさが際立ってくるようになっている。
(続く)
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2019年07月19日

「形が明確ではなかった」1990年代

4月発売の『すばる』5月号の高橋源一郎と斎藤美奈子の対談「平成の小説を振り返る」を再読した。

3か月前に読んだ時は意識しなかったのだが、「平成の小説」ということは前回の改元直後に発表された小説も含むはずなので読み直したのだが、「「平成を考えるための10冊」リスト」には1989年・1990年の小説は上がっていない。
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1990年代前半までに発表されたものは、斎藤美奈子のリストの中の、松浦理英子「親指Pの修業時代」1993年・笙野頼子「タイムスリップ・コンビナート」1994年(+「なにもしてない」1991年)と「おまけ」の奥泉光「バナールの現象」1994年だけ。対談の中でも指摘されているが、高橋源一郎の選んだのはおまけの中の一作を除いて全て2001年以降に発表されたものである。

斎藤 私は結果的には男女半々でしたけど、バランスはあまり考えていなかったです。高橋さんは、平成後半に力点があったから女性作家寄りになったのではないでしょうか。九十年代の作品は選んでらっしゃいませんよね。
高橋 あ、本当だ。僕のリストには九十年代が無いな。おまけを入れても、小島信夫さんの『うるわしき日々』(一九九七)だけ……
斎藤 九十年代って形が明確ではなかったですよね。当時もそう感じていましたし、今振り返ってもはっきりしない。二〇〇〇年以降の方が暗い印象です。


1989年の宮崎勤の事件、1989・1990年の冷戦終結、1991年の湾岸戦争、1994年・1995年のオウム真理教の事件、それに1995年初頭の阪神・淡路大震災など、大きなカタストロフのあった時代だが、小説には結びついていないということだろうか。
震災を除くと、いずれも当時の「メイン・カルチャー」から外れていたできごとではあるが。

選ばれている中でここでふれてきた二作、「バナールの現象」は湾岸戦争を題材としているし、「なにもしてない」にもやはり言及がある。
上記のできごとを取り上げていないのが「明確ではなかった」理由であるように思えてくる。
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2019年07月18日

「小説の教育は可能か―『キルプの軍団』『静かな生活』他―」公開。

これで『大江健三郎論』の書き下ろしである「II」にあたる内容を全て公開した。
まだ、「I」に収めた二つのメモと、書き下ろしの形になってしまった「III」のそれぞれ「万延元年のフットボール」と「青年の汚名」を論じたものが残っているが、今回の電子化は『大江健三郎論』の内容を、その後書いた論文と組み合わせてリサイクルするためだったので、ひとまず作業はここまでとする。

あらためて読み直すと「小説の教育は可能か」はかなり不十分というか上っ面な内容で、それ以降の仕事、たとえば最新の『小説を読むための、そして書くための小説集』とつなげることもできる。

「燃えあがる緑の木」三部作も読み直さねばならないか。

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2019年07月17日

退位騒動によって顕在化したこと

先週ふれた『週刊読書人』で紹介された天皇制をめぐるテクストの一つである小谷野敦「とちおとめのババロア」『文學界』2018年3月号(青土社から同年に出版された同名の短篇集に収録されている)を読んだ。

明仁天皇が退位についての希望を述べた2016年が作中の時間であり、都内の女子大学に勤める男性准教授と皇族の女王との出会いと結婚までが描かれている。
言い換えると、皇族の女性が、日本国民としての「人権」を獲得するまでの過程が描かれている訳である。

作者は以前からブログや著書で皇族に人権が与えられていないのは差別であると書いていたが、その主張にストーリーを与えてわかりやすくしたものと言える。
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2019年07月16日

反転した世界

『居場所もなかった』が1998年に講談社文庫に収録された際の「文庫版あとがき これは小説ですか―。はい純文学実験小説です。」には、次井のような記述がある。

―で、そういう彼らが好きなのは、別に活字にする必要のないもの、テレビドラマやお説教や浪花節の中にあればすんでいくもの。例えば、そんな小説の中では、女は男のいいなり。世の中で起こる事にはなんでもちゃんと判る理由が全部ついてる。つまり善玉と悪玉がはっきりしていて、天皇とかお金とか夫婦とかそういう事について何も考えなくてもいいご立派な小説。(略)


ここではメディアを通して「純文学」批判をするものや、それを見て見ぬふりをしていればいいと思っている「連中」が好きなのはこのような小説だと並べている。このような小説ではしていないこと、たとえば「天皇とかお金とか夫婦とか」について考えるのが「純文学」であるというわわけである。

収録作の「背中の穴」『群像』1991年10月号は「居場所もなかった」の前日譚(こちらの方が発表は先だが)のような小説で、最初の八王子からの引っ越しの日のできごとが語られており、タイトルの「背中の穴」は冒頭で次のように言及される。

 府中街道を車で走っていて背中の穴の事を思い出した。
 私の母方には代々背中に小さい穴のある人が生まれていた。母の背中には直径が五ミリ、深さが二ミリ程の穴があったし、祖母のそれは直径五ミリ深さ五ミリだった。位置はどちらも大体同じだったように記憶している。また言い伝えでは、曾祖母には深さ七ミリの、そのまた母になるともう少し深い穴があったそうだ。深さが異なるのは、父系の血のせいで、代を重ねるに連れ浅くなって行く。直径の方は代々五ミリ程で変わらなかったらしいが、浅くなって行く方は食い止めようもなく、結局その代々の特徴も私の代で途絶えてしまった。実際、私の背中には痕跡もない。そもそも外見も体質も私の体には父方の影響が大変濃く出ている。


語り手がこの「代々の特徴」を思い出す引っ越しトラックは「紫色の二トン車がマンションの庭先に停まっていたのを見ると、その輪郭はぐにゃぐにゃしている上、全体に鱗のような模様まであった」と描写されている。
紫色の、龍の中で、「一世代にたったひとり、母方直系の長女にだけ現れ代々引き継がれて来た」欠落。

欠落は「私」にとって居場所の無さに結びつく。男性直系だけが引き継いできたという物語を担った天皇が、居場所を定められているのとは正反対に。

……それにしても、一昨日書いた「居場所もなかった」の年月についての誤植や、「背中の穴」の「全長ニメートルのポトスの茎」といったOCRソフトにありがちな誤植とか、「あとがき」で述べられているメディアや編集者のぐだぐだっぷりを連想させるもので脱力しますな。

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2019年07月15日

「家庭・〈われわれ〉・民主主義―『新しい人よ眼ざめよ』―」公開。

旧著の書き下ろし部分をさらに公開した

今回の章は以下の二つのテクストを並べてみたらこんな読み方ができますよ、という内容である。

新しい人よ眼ざめよ (講談社文芸文庫) [ 大江 健三郎 ] - 楽天ブックス
新しい人よ眼ざめよ (講談社文芸文庫) [ 大江 健三郎 ]
反=日本語論 (ちくま学芸文庫) [ 蓮実重彦 ] - 楽天ブックス
反=日本語論 (ちくま学芸文庫) [ 蓮実重彦 ]

どちらもおすすめなのである。
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2019年07月14日

改元と戦争

笙野頼子『居場所もなかった』1993年
居場所もなかった【電子書籍】[ 笙野頼子 ] - 楽天Kobo電子書籍ストア
居場所もなかった[ 笙野頼子 ]

「居場所もなかった」『群像』1992年7月号

語り手の小説家が1985年3月に京都から東京に転居してから、都内での二度目の引っ越しを終えた1992年4月までが作中の時間である。

なお、電子書籍版では冒頭に「一九九〇年十二月から一九九〇年二月末まで、自分の住む部屋を捜して歩いた」となっているが、時空が歪んだ世界であるのではなく、正しくは一九九〇年二月末である。
社会の事件や都市の状況にかかわる気になる箇所の抜粋。

  一九九一年四月

世界情勢からアレルギーの再発まで、全部関係あるような気さえその時はしていた。

  公園のある生活

トラックの前半分が竜になっていた。

  一九八五年三月

(京都と東京の対比)

地図の表紙を開くと、全体図の放射状に伸びた線路だけが、意味ありげに、目に入ってくる。ところどころにテレビ局や皇居のある地区名が散らばっている。

  ひとつながりの夢

ある日、私が一方部屋の外へ出ると、まず街路から殆どの家が消えてしまっていた。(略)そして大喪の日に、家の前の歩道に丹精した鉢植えを持ち出して一心に道を飾っていた老人の住まいと、あちこちをガムテープで目張りしてあるひょろ長い二階建ての木造家屋が、とにかく、私の記憶の中で少しでも何か個性的なひっかかりを持って記憶されていた住居という住居が、消え失せていた。

  オートロック・ランド

 一応閉ざされた一応安全な場所にいると、自分はどこにも住んでいない、別の世界に隠れているという錯覚さえ生じる。八王子でも伊勢でもなく、無論番地も住所もない、ただオートロック、反密室の世界である。

  密室の外

 部屋探しの日々は、湾岸戦争が拗れていたあたりである。

戦争シテイルノニ、住ム場所ガナイノニ……

 署名をして三日後、湾岸戦争は一応集結を始めた。

  五十三階の空

 この街はよく飛び散ってしまわないものだと思い、ふとホラースポットの緑がそれらを押さえているという想像に辿り着いた。お化けが怖いということだけを頼りにして、人々はこういうワケノワカラヌ首都に住むのではないかと。
posted by kuwabara at 23:44| 大阪 ☔| Comment(0) | 戦後文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月13日

戦後40年・84歳の天皇

『拝啓マッカーサー元帥様』は元々1985年8月に大月書店から刊行されたものだが、この年は「戦後40年」ということで、戦争・戦後を振り返るメディアの企画が多かった。
10年後の戦後50年の方が半世紀ということで盛り上がりそうだが、1985年もかなり盛り上げようとしていた記憶がある。
理由としては、1982年に首相になった中曽根康弘が「戦後政治の総決算」といって改憲論議や防衛費の1%枠を撤廃しようとしていたことがあるのだろうが、10年後の1995年には1901年生まれの裕仁天皇はもういないのではないか、という判断が働いていたということもありそうだ。
そして、実際にそうなった。

さて、次は笙野頼子『居場所もなかった』講談社、1993年を読んでいる。表題作は『群像』1992年7月号に掲載されたものだが、作中の時間は1990年。
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2019年07月12日

作者が自ら語ることの意味

昨日ふれた『拝啓マッカーサー元帥様』の続きを読んでいるが、「めったにその姿をお示しにならない」とはいえ、写真が全く出ていないという訳ではなく、やはり肖像写真を見て近さ・親しみを感じてしまう人々はいて、様々な期待をもった投書を送ってくるのだった。

この後引用する投書は、マッカーサーの写真を見たことがわかる内容である。「無名の彫刻家で、石膏によるマッカーサーのレリーフ(浮彫の像)を自分から作って献上したところ受納されたので、今度はそれをプロンズにしないかと持ちかけている。手紙は巻紙に筆で書かれ、まさに雄渾としかいし、ようのない勢いの達筆である。投書の主の気持のたかぶりが何よりもその筆の勢いに現れており、同時にこのような手紙を書かせた時代の雰囲気が感じられる。日付は昭和二十四年十一月二十三日。」(157-158頁)とのことである。

幸ひ彫刻芸術家として製作意欲をこゝに持ちました次第に御座います 只残念にも総司令部の前にて遥かにそして残(暫)時元師(ママ)を拝し時々群集中の一人として卑(ママ)弱なオペラグラスにて拝姿したのみにて例へ絵は画けましても彫刻は簡単に行きません 遂に共同通信社の撮影になる立派な御写真を見出し小躍りして製作せる次第に御座いました  之れほど広大無辺の御容相レリーフ表現にあたり全く条件に適合せる想念を宇宙化した尊顔は今尚小生の知る限りに於て他に見出すことが出来ない次第に御座います
158頁


マッカーサーも「総司令部の前」で「群衆」の前に立ったり、共同通信社の依頼に応えて写真を撮らせたりはしていた訳で、しかし親しく声をかけるようなことは避けていたということになる。
今ならブログもSNSもやってない、ドキュメンタリーやバラエティ番組にも出ない有名人みたいなものだろう。

新しい日本の作者マッカーサーは、そのようにして自身を卓越化していたのである。
その点で、エッセイや対談・インタビューなどでの作者自身の言葉は、彼らを平準化する力を持つことになるのだろう。
posted by kuwabara at 23:06| 大阪 ☀| Comment(0) | 作者のひみつ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする