2019年05月31日

「作者の死」の周辺4

1968年発表のものを読み終わる。
やはり5月革命の年なので、それにかかわるインタビューもある。

ブルジョワ的なイデオロギーへの批判ということで、40日くらい前に引用した「作者の死」の「資本主義イデオロギー」についての記述とつながるものがありそうだ。

「構造主義と記号学」(『レットル・フランセーズ』1968年)

たとえば、わたしが見たフランス語で書かれた学生の動議には、小中高大学の教科書を非神話化し、これら教科書にはブルジョワ・イデオロギーが詰まっていることを示そうという、まことに賞賛すべき配慮を見せたものがありました。
176頁
誰もが知っているように、少なくとも社会科学や人文科学においては、知識そのものにイデオロギーが侵入しているのです。したがって、教師に知識の純然たる伝達を要求することはできません。学問分野としての、あるいは意味に関するディスクールとしての記号学が持っている可能性のひとつは、まさにさまざまな形態のなか、つまり、一般的に記号学がもっとも求められていない場所に潜むイデオロギーを包囲することを可能にする分析手段を提供する点にあります。
177頁


著作権とは個人が所有する文化資本であり、作者の特権性とはブルジョワ(資本家)・イデオロギーの一つであるわけだ。
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2019年05月30日

「作者の死」の周辺3

1965年に雑誌『コミュニカシオン』に発表した「大衆文化と高級文化」というエッセイもおもしろかったのだが、作者とは直接関係しないので、ふれてこなかったのだが、「芸術」や「芸術家」信仰と関連したものが出てきたので、それは引用しておこう。

「社会、想像力、広告」(『広告とテレヴィジョン』収録、1968年)

広告は、大衆文化に向けられた一般的な不信に巻き込まれている。大衆文化は選別ということをしないので、趣味とか知性が命じるものに関心を持たないし、言葉とイメージの反復を受けつけない姿勢を知らずにいる。この二つの例において、広告が容認しがたいのは、金銭が生なかたちで現れており、あたかもそれが破廉恥に見えるからである。(略)広告のイメージとかテクストを定義づけるものは、まさにその商業的な起源、すなわち説明の対象となる商品のすばらしさを隠しおおせないというところにある。もっとも誰が金を払うのかということを知らせる目的そのものを外してしまう場合もあるのだが。今日、広告は程度の差こそあれ、注文でつくられる詩と同じように怪しい目で見られている。そういう詩は、注文主の名前とその恩恵をあからさまなかたちで見せなくてはならない。かつてこのような詩作はふつうに行われていたが、現在では、金銭の世界とまったく接触のない「無欲」な芸術の神話と相容れなくなっている。
147-148頁


「金銭の世界とまったく接触のない「無欲」な芸術の神話」という記述は、あたりまえだが資本主義の全てを巻きこむ力をよくわかっていらっしゃるという感じである。
「その商業的な起源」を見えないように、無いかのようにふるまうのが「芸術」ということになる。

しかし、引用前半の「大衆文化は選別ということをしない」という記述が正しいなら、日本のマンガやアニメやゲームはとっくに「大衆文化」であることを止めているのだな。ジャンル内で「選別」してばかりだもの。

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2019年05月29日

「作者の死」の周辺2

昨日の続きで同じものを読んでいる。

印象に残った箇所を引いておく。

アントワーヌ・ガリアン『木々の緑』「序文」1967年
作家は「なにものか」を語り、われわれを結末にむけて引き寄せる。しかし、この「なにものか」は他者の言葉にほかならない。エクリチュールは、他者の言葉の際限ない喚起に繫がっているものの、「現実的なもの」の内奥には決して到達しないまま――それも当然のこと――、ここで侵犯の運動そのものとして現れている。その目的は青春、セックス、思い出、物語そのものといった、世界が示してくれるさまざまな対象を呼び起こすと同時に、それを破壊することにある。
120頁


作家が語るのは「他者の言葉」だというのは、「引用の織物」としてのテクストとつながっていそうである。
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2019年05月28日

「作者の死」の周辺1

近代初頭の出版と作者についてはいったんおいておいて、「作者の死」についてもう少し精密に考えてみるために周辺の資料を読んでいる。

まずは『ロラン・バルト著作集 6 テクスト理論の愉しみ』(野村正人訳、みすず書房、2006年)だが、1965年とか1966年あたりだと「テクスト」という言葉も出てこないのだった。「エクリチュール」は出てくるけれども。

とはいえ、『ラシーヌ論』をめぐるピカールとの対立の話は出てくるし、日記をめぐる以下のような記述もある。

「アラン・ジラール『日記論』」(『社会学年報』1966年)
また批評は、日記からその「秘密」をなんとしても引き出したい欲望に抵抗しなければならないという、アラン・ジラールが提出するもうひとつの考察を活用することもできるだろう。結局のところ、個人の「秘密」などというものはあるのだろうか。批評が抱えるほんとうの問題は、ひとりの人生の隠された動機を知ることではない(日記執筆者の人生がつまるところ作品そのものなのだから)。人間というのは秘密があるからではなく、複雑だから謎なのであって、秘密を探っても空しいのである。
54頁


「人生」や「人間」にかわりに「テクスト」と入れても良さそうな。

続きはまた後日。

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2019年05月27日

不全な人々

1ヶ月前にタイトルだけ出していた『ノヴァーリスの引用・滝』を再読した。

元号が変わった直後の日本が舞台になっていたが、特にそれにかかわる変化は出てこなかった。
「滝」に「皇室に近い旧宮家」云々ということが出てくるが、特に大きな意味を持っていることは無さそうだ。

しかし、昨日の話の続きとして、いずれも目指していたことを達成できなかった若者が出てくるのだな。

その他、「葦と百合」に続いてまたシューマンが出てきたり、主要登場人物による批判があたかも「東京自叙伝」の主人公と共通の存在への批判となっていたり、いろいろ後につながるものがあった。

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2019年05月26日

「僕」たちの失敗

出張で学会出席二日間。

当然退屈な発表もあり、聞きながら時間潰し的にあれこれ考えていたが、戦後文学の最大のポイントは、企図され、目標・目的とされたことがことごとく達成されずに終わるということがあるということに気がついた。

それどころか、もう少しでうまく行く、というところで全部台無しにする登場人物の例にも事欠かない。

登場人物が目標・目的を持ち、様々な困難を乗り越えそこに至る。こういうストーリーはわかりやすく受け入れられやすい。
そのあたりが、戦後文学が「難解」と言われる所以なのだろうし、だから戦後文学の登場人物の行動を積極的に意味づけるのは、的外れだし、「戦後」という時代が有している不全性をとらえ損なっているのである。

いかに、受け入れられやすい成功のストーリーを拒絶するか。
村=国家=宇宙の歴史は完成することはなく、妹への繰り返し送られるラブレターは彼女の心を動かすことはない。

根拠地は国家資本主義の中でその一部として存続する以外には存在できない。

あらかじめ刻印された不全をいかに隠し、またいかに効果的に曝して見せるかが、目指されているところである。

その点では、後藤明生も村上春樹も「戦後」の作家であり、戦後文学を継承していると考えられるのである。
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2019年05月25日

1988年から1990年の小説一覧(2)

昨日の続き。「小説」と書きながら、評論も入っているがそんな区別は無用ですよ。

1989年
上野千鶴子『スカートの下の劇場』
大江健三郎『人生の親戚』
大岡昇平『堺港攘夷始末』
大塚英志『物語消費論』
柄谷行人『探究II』
後藤明生『首塚の上のアドバルーン』
島田雅彦『夢使い』
高橋源一郎『ペンギン村に陽は落ちて』
筒井康隆『残像に口紅を』
中上健次『奇蹟』
蓮實重彦『小説から遠く離れて』
古井由吉『仮往生伝試文』
村上龍『ラッフルズホテル』
山田詠美『放課後の音符』
渡部直己『読者生成論』

昨日の分は補足しているので、この分もやはり補足するかもしれない。
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2019年05月24日

1988年から1990年の小説一覧(1)

思いつく限りで並べる。全く網羅的ではない。

1988年
石原慎太郎『生還』
いとうせいこう『ノーライフキング』
上野千鶴子『女遊び』
大江健三郎『キルプの軍団』
大岡昇平『小説家 夏目漱石』
大塚英志『システムと儀式』
尾辻克彦『贋金づかい』
金井美恵子『小春日和』
すが秀実『探偵のクリティック』
高橋源一郎『優雅で感傷的な日本野球』
筒井康隆『驚愕の曠野』
富岡多恵子『白光』
中上健次『重力の都』
橋本治『無花果少年と桃尻娘』
蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』
丸谷才一『樹影譚』
村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』
山田詠美『ひざまずいて足をお舐め』『風葬の教室』
渡部直己『リアリズムの構造』

前年と翌年にいろいろ印象的なものが出ているので、それはまた今度。
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2019年05月23日

戦後文学とは暴力とセックスの主題化だった

三日前の続き。「ダンス・ダンス・ダンス」ではけっこうな数の死者が登場する。

戦争中、戦場・前線では暴力とセックスが日常化していた訳だが、日本の銃後では、いや正しくは日本の銃後のメディアでは暴力とセックスは抑圧・弾圧されていた。
だからこそ、戦後文学は人間における暴力とセックスとは何なのかを問うことになったわけで、その点で大江健三郎は戦後文学の影響をまともに受けている。それは日本だけではなく、第二次世界大戦を経験した様々な地域の戦争・戦後の影響ということであるが。

村上春樹も次第に暴力とセックスを問うような小説を書きはじめる。もちろんデビュー作の「風の歌を聴け」も学生運動との関係が暗示されたり、実は「妊娠小説」だったり、暴力とセックスは登場するのだが、より前面に出てきているというか。
印象として、暴力よりもセックス描写が多くなっていることが注目されてきたように記憶しているのだが、当然それだけではなくて、村上春樹の小説における暴力についても論じられているのだろう。

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「ノルウェイの森」「ダンス・ダンス・ダンス」「国境の南、太陽の西」あたりからそのへんはっきりしてきたようなのだが、こういう戦後文学性みたいなものはどの範囲まで広がっているのだろう。
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2019年05月22日

江戸時代も作者は注目されていた、一応は。

『作者のひみつ(仮)』は、産業資本主義が確立し、著作権によって作者の権利が守られるようになることで、社会における作者の地位は高まり、また作品とより強く結びつけられることで、作品を理解するためには作者、または作者の人生や思想を知る必要がある、という発想が広まった、という大きなストーリーで書かれる予定である。

ただ、調べていくと、工業化による本格的な出版資本主義が成立していなかった江戸時代にも読者は作者に注目する発想を持っていた、というのが困ったところである。
大まかなところは一ヶ月くらい前にメモしておいたが、浮世絵において作者(もちろん写真はない時代なので想像した、時代考証的には誤った像ではあるが)が描かれ、また絵の構図や描かれるものが作者の歌やまつわるエピソードにからめたものだとすると、作品の理解に作者のイメージが影響するという考え方は受け入れられていたということになる。
これは困ったことになった。

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最後の砦は、それらのエピソードが説話などを通してよく知られているものの、あくまでも実証的に事実だと判断できるようなものではない、ということである。さらに言えば、事実を集めて作者の実像を把握・獲得しなければならない、という強迫観念こそが近代的な作者像を支えるものであり、江戸時代の読者の中にはそういうものは生じていなかったのではないか、ということだろう。(そういう所にこだわるマニアックな和学者はいたかもしれないが)

同じく一ヶ月くらい前のこれとかこれは、そのへんの話で、一ヶ月かけて大体のところは整理が付いた感じである。
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2019年05月21日

作者西鶴の再発見について

井原西鶴は17世紀に上方で活躍した俳諧師・浮世草子作者だが、文学史上でよく知られるエピソードとして、没後忘れられた存在だったのが、近代になって再発見され、小説家たちの理想の一人となったということがある。

どうして忘れられたかについて、この本の冒頭の編者鈴木俊幸による総論「書籍の宇宙」を読んで、おおまかな状況が把握できた。

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京・大坂では草紙類は日常ありふれた、つまり消費物として保存されることもなく散逸し忘れ去られていったそうだ。ということは、そちらを活躍の舞台としていた西鶴のものも生前の人気とかかわりなく同様の扱いを受けたのだろう。
ところが江戸では、寛政期頃から過去の江戸の俤をしのぼうとする「江戸ブーム」が起こり、様々な文物を蒐集しそれについての考証を試みる人々が現れる。その中には大田南畝や式亭三馬のような戯作者も含まれていたとのことである。

文学史上で近代における西鶴再発見の立役者として名があがる淡島寒月の「明治十年前後」(青空文庫で読める。本当に毎度頭が下がる)には次のようにある。

私の家は商家だったが、旧家だったため、草双紙、読本その他寛政、天明の通人たちの作ったもの、一九、京伝、三馬、馬琴、種彦、烏亭焉馬などの本が沢山にあった。特に京伝の『骨董集』は、立派な考証学で、決して孫引のないもので、専ら『一代男』『一代女』古俳諧等の書から直接に材料をとって来たものであった。(略)『骨董集』を読んだために、西鶴が読んでみたくなり出した。が、その頃でも古本が少なかったもので、なかなか手には入らなかった。私の知っていた酒井藤兵衛という古本屋には、山のようにつぶす古本があったものである。何せ明治十五、六年の頃は、古本をつぶしてしまう頃だった。


「書籍の宇宙」によると、山東京伝も草紙類の蒐集家の一人で、『骨董集』は彼の書いた「考証随筆」の一つである。

忘れられていた西鶴の業績がマニア山東京伝によって拾われ、その関心が淡島寒月に引き継がれたということになる。
ただ、淡島寒月は近代的な文学観を知っており、それに基づいて西鶴を意味づけ直したことになる。

こうなると『骨董集』で作者として西鶴がどのように語られていたのかが、気になってくることだよ。
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2019年05月20日

バブル経済と村上春樹

一昨日の続きで村上春樹を読んでいる。

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電子書籍だと上下に分かれていないので便利である。

1983年のできごとを描いているが、発表されたのは1988年なので、最初の方に出てくる都市再開発をめぐる地上げが、バブル経済へ発展して日本中であたりまえになることは当然ふまえられている。
「国境の南、太陽の西」で語り手の始(はじめ)の義父がやろうとしていることが実際に行われた結果、新しいドルフィン・ホテルが建ったわけだ。
この高度資本主義について語るフリーライター「僕」の元に「文化の雪かき」仕事が頻繁にやってきて「貯金通帳の数字」が見たこともないような金額に膨れあがっていった」のも好景気のおかげである。バブルだけではなく「雪」も時が来れば跡形もなく消えてしまう。

日本のバブル経済の進行と終焉が、たまたま一人の老人の病気と死と重なったということは物語的には美味しいはずなのだが、あまりそういうフィクションを見かけないのは、やはり「自粛」の結果なのだろうか。

そういえば、「ジャンク・フード」という言葉を知ったのはこの小説でだった。昔の話だ。
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2019年05月19日

売れない「詩」の特権性

四日前三日前の続き。

この本はヴェルヌの専門家が書いた第一章・第二章と、ヴェルレーヌの専門家が書いた第三章・第四章から構成されており、前者はヴェルヌと近いところにあった小説を出版した人たちが、後者はヴェルレーヌと近いところにあった詩を出版した人たちが、それぞれ主人公になっている。

いろいろ参考になったが、小説に比べて売れない詩はそれ以外の権威を必要とする記述がおもしろかった。小説の中でも売れるものと売れないものが峻別され、売れない小説は権威を求め自らを特別なものとして語り始めるようになるわけである。
これはあらゆるジャンル、ジャンル内ジャンルに生じる現象であることだよ。

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2019年05月18日

前回の改元の頃の村上春樹

『国境の南、太陽の西』は1988年の10月中旬か下旬で終っている。
その後訪れ、彼の義父や彼自身の生活に大きな変化をもたらすだろうバブル経済の崩壊の手前で終っている。
もちろん、裕仁天皇の死を控えた「自粛」騒ぎも、その後の改元も出てこない。

そもそも語り手の始(はじめ)はテレビも見ないし、ラジオも聞かないし、新聞も読まないようだ。雑誌にいたっては、「書店に入ってそこに置いてある膨大な数の雑誌を見るたびに、いったい誰がそんなものをいちいち読んでいるんだろうといつも不思議に思っていた」とまで言われている。
天皇の病状を伝えるマスメディアにふれなければ、あたかもそんなことは起っていないかのように振る舞うことができるわけだ。
そのあたり、この長篇小説の3年前、1989年の前半に「TVピープル」が発表されているのと関係させられるかもしれない。

ちなみに1988年から1992の村上春樹の小説をざっと並べるとこうなる(データはタブ区切り)。遺漏はあるかもしれない。

ダンス・ダンス・ダンス 講談社 1988 10
TVピープル PAR AVION 1989 6
飛行機―あるいは彼はいかにして詩を読むようにひとりごとを言ったか ユリイカ臨時増刊 1989 6
我らの時代のフォークロア―高度資本主義前史 SWITCH 1989 10
眠り 文學界 1989 11
加納クレタ 『TVピープル』 1990 1
ゾンビ 『TVピープル』 1990 1
トニー滝谷(ショート・バージョン) 文藝春秋 1990 6
緑色の獣 文學界臨時増刊 1991 4
氷男 文學界臨時増刊 1991 4
沈黙 『村上春樹全作品5』 1991 1
トニー滝谷(ロング・バージョン) 『村上春樹全作品8』 1991 7
国境の南、太陽の西 講談社 1992 10
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2019年05月17日

前回の改元の後の小説

「葦と百合」を読み終わる。

1990年の4月初めの数日間の話であり、それ以前のできごとも頻繁に参照されるが、裕仁天皇の死や改元があったことには全くふれられない。
しばらく日本にいなかった人物の視点を中心に書かれているからと一応言うことはできる。

今回読み返して「シューマンの指」との共通点に気づいた。

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次読んでいるものは、1951年生まれの語り手が36歳・37歳の頃の話なので、まさに「自粛」ブームと改元の時代である。
もっともそれよりもバブル景気の東京という方が強調されている。
後半どうなるか。

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2019年05月16日

商人としてのボードレールとゾラ

山田登世子『メディア都市パリ』の「文庫版後書き」には次のような「嘘」についての説明がある。

「嘘」と言うのは(略)現代消費社会の《始まり》が十九世紀前半のパリに在ったという本書全体の主張のことである。
メディアとモードの繰り出す浮薄な言説が加速化したその光景に限りなく類似した光景を十九世紀のパリに見いだすとしたなら、決して世紀前半の前半、バルザックやジラルダンが活躍したいわゆるロマン派の時代ではない。
(文庫版303-304頁)


では、十九世紀後半ならどうなのか。昨日紹介した『あらゆる文士は娼婦である』は、1861年に「レ・ミゼラブル」の出版契約を結んだユゴーの話から始まり、「若い文学者たちへの忠告」(1846年)を書いたものの自身の批評本を出版社に売り損ねたボードレールや、逆に自費で広告を出すことを条件に最初の本を出版するのに成功したエミール・ゾラが対比的に描かれる。
アシェット社の宣伝部で働いていたゾラは文学を商品として売らねばならないということを熟知していた、という。

そんな彼にとって、著者と出版社を不俱戴天の敵と見做す発想は、もはやロマン主義時代の遺物であり、編集者との共犯関係は自明の前提であった。
 そのとき、ゾラが目指していたのは、作家の職業化、すなわち、文学そのものの経済的自立にほかならない。
(96-97頁)


ちなみにアシェット社は、現在これを出している会社のことです。

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2019年05月15日

19世紀ヨーロッパの出版者と作者

日本の話が続いたので、ヨーロッパの話。

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あらゆる文士は娼婦である 19世紀フランスの出版人と作家たち / 石橋正孝 倉方健作

前にふれた山田登世子『メディア都市パリ』と同じ19世紀中盤から後半を取り上げた本。
「文学の場を構成する不可欠のパーツである出版社たちの役割を看過」せずに「文学の歴史を語る」というふれこみである(「プロローグ」)。
参考文献が上がっていないのが気になるのだが、いろいろ知らなかったことが書いてはある。

第1章で取りあげられているヴィクトル・ユゴーは、『メディア都市パリ』では、「市場の中の芸術家」であることから逃れた例外的な存在としてあまり出てこないのだが、本書では「レ・ミゼラブル」の出版の経緯、出版者間の取り合いを描いている。売り手であるユゴーの方が強気に売値を条件として出して、出版者たちが右往左往するというストーリーなのだが、例外的な存在であるはずのユゴーもまた自身の作品をどれだけ高い商品とするかを考えていた、ということはよくわかった。
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2019年05月14日

プログラム・ピクチャー的なもの

昨日の続きで岩波講座『日本文学史 第9巻 一八世紀の文学』から。木越治「小説の革新」の冒頭で浮世草子作品における代作を問題にしている。
代作の範囲を確定できない以上、作者個々の「文学的特質を解明するという方向に進みえない」というのである。これはまさに「作者」の支配の下での発想である。

とはいえ、そこから作者ではなく「書肆の営業政策および出版システム」から考える方向に行っているのは非常に参考になる。

浮世草子の場合でいえば、毎年決まった点数の作品を市場に提供し、短編は気質物、長編は演劇種の時代物というふうに固定したブランドイメージをつくりあげたことが市場制覇の最大の要因であったろう。其磧であれ南嶺であれ、その他の作者であれ、執筆はこの大枠のなかですすめられたはずで、代作者に要求されたのは、なによりもまず職人としての能力であった。(243頁)


昔だと旗本退屈男や眠狂四郎のような、今だと007とかマーヴェルとかのいわゆるプログラムピクチャーと呼ぶべき映画が、ある程度脚本を作った上で監督を決めて撮らせるようなことが18世紀の江戸でも行われていたということである。

もちろん、プログラム・ピクチャーに作家性を見出すことも可能だし、近代的作家主義とはそこまで踏みこんでこそでもある。
しかし、近代人ではないので、踏みこまずに作者を相対化する方向を目指したい。
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2019年05月13日

「狂歌ブーム」と作者のゴシップ

鈴木俊幸『蔦屋重三郎』にも1783(天明3)年に出版された『万載狂歌集』(と『狂歌若葉集』)によって江戸狂歌が大流行するという話は出てきたが、さらにそれに付随した作者にまつわる話。

岩波講座『日本文学史 第9巻 一八世紀の文学』(1996年)収載の小林勇「安永・天明の江戸文壇」によると、翌年に出版された恋川春町の黄表紙『万載集著微来歴』は、「読者側に広く狂歌壇や、個々の狂歌師に対する興味が存在することを前提としたような作柄」であるという。
この時期作者について知りたい、という欲望が読者にあったとすると、既に作者の特権的な地位の萌芽があったということになる。

ただ、ここで作者の「ゴシップ」と言われているものが、それぞれの作者の狂歌の解釈に結びつくものなのか、というのは検証しなければならない。作品の説明が作者の思想や生涯に求められるのが、「作者の死」において実証主義として批判されていることなので、そのような近代批評・近代研究的な発想はまだ無さそうである。
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2019年05月12日

出版者の介入・企画(プロデュース)について

資本主義社会で出版が産業になる以上、出版者の意向と関係することなしに、表現が閉ざされたサークルとか会とかを超えて多くの人の元に届くことはないわけである。
ところが山東京伝の黄表紙について次のような記述がある。

その最初の場面に、富士山形に蔦の葉の紋(すなわち蔦重の商標)を付けた羽織を着た男が講釈を聞きながら「今夜の講釈はよく覚えて草双紙にしましょう」と言っている。この男、最後の場面にも描かれ、そこの書入れに「富士山形に蔦の紋を付たる男の胸の鏡には今夜の講釈を書き留めて新板の草双紙にしませうといふ抜け目のなき姿が映る」とある。講釈から草双紙のネタを漁ろうとする版元の姿を描いているのだが、これは、ここに戯画化されているような版元主導の体勢に組み込まれてしまっている作者の自嘲である。しかし戯画には違いないが、版元主導の戯作作りが定着し、それが作品の内容にまで及ぶことに違和感を覚えない時代が訪れていることの証左でもあるのである。
(鈴木俊幸『蔦屋重三郎』243頁)


はたして「版元主導の体勢に組み込まれてしまっている作者の自嘲」というとらえ方は的を射ているのだろうか。表現者を、自発的に表現したがる芸術家的に過剰にとらえたもののように思える。
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