2016年03月14日

2010年代の森田思軒の研究書2冊

前の記事で次は森田思軒について考えてみると書いたが、そちらに関心を戻した理由としては、森田思軒の出身地にある笠岡市立図書館が編集した『森田思軒資料集 2015』を送っていただき、以前考えていたテーマを思い出したということもある(紹介記事編集した司書の方についての記事)。いや、完全に失念しているわけではなかったですが。

この『資料集』には「参考文献一覧」も入っており、それによると「『嘉坡通信報知叢談』論」を発表した2009年以降、二冊森田思軒についての研究書が出ている。

まずは2012年に出たこちら。


これは、翻訳学の成果に基づいて森田思軒の翻訳観を再検討した上で、「探偵ユーベル」の翻訳の様相を論じた研究である。

翻訳学の用語として「起点テクスト志向」と「目標テクスト志向」というものが出て来る。前者は原文を忠実に翻訳することを目指し、原文が異なる言語・異なる文化の元に生み出されたことから来る異和感を生じさせることを避けない。一方後者は訳文の言語としての自然さを求め、原文の言語・文化の異質性を意識させないようにする。慣れた言葉を使うなら原文尊重と訳文尊重ってところでしょうか。
この志向はどちらが正しいというものではなく、実際森田思軒は両方の志向を尊重するような言説を残している、というのがこの本の主張の一つである。

翻訳学の中では、それぞれの言語を使用している地域の政治的地位の差が二つの志向と結びついているという考え方があるようで、(ここからは自分で考えた例だが)たとえば政治的に優位である欧米で使用する言語で書かれた文章を近代の日本で翻訳すると「起点テクスト志向」になるし、戦後世界のヘゲモニーを握ったアメリカで非欧米圏の言語で書かれた文章を英語に翻訳すると「目標テクスト志向」になる、ということになる。「起点テクスト」の文化を理解する価値のあるものととらえるかどうかで二つの志向が選択されてくる。
その点、最近の日本における小説の翻訳が、より日本語としての読みやすさを目指しているように見えるのは関係があるんでしょうかね?

もう一つは2015年に出たこちら。ちょうどやまなし文学賞を受賞されたところですね。


サブタイトルに「坪内逍遥・森田思軒・若松賤子」とあるように、森田思軒だけを取り上げているのではなく、小説の翻訳を中心に原文テクストの持つ政治性と訳文の持つ政治性を比較することで明治時代の文学が担った政治性を明らかにしようとした研究である。

不思議なのは前の一冊に対する言及が全くないことで(なので本書冒頭の「翻訳研究」についての記述は最新の動向をふまえたものにはなっていない)、このへんは日本近代文学研究とコミュニケーション学の一部である翻訳学では畑違いで接触がないということなのだろう。
『近代日本の翻訳文化と日本語』の方には『明治の翻訳ディスクール』の一部となった論文への言及もあるのだが、いまどきは多くの人に献本するだけの冊数を著者が得られるということもないようだし、いや、せちがらないですなあ。
そういう自分自身も『森田思軒資料集 2015』を送ってもらえなければ、気づけなかったのかもしれないのですがね。
あらためて、ありがとうございます。
posted by kuwabara at 20:06| 大阪 ☔| Comment(0) | 1890年前後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月05日

「1970年代の日本の〈小説家についての小説〉について」

以前から取り組んでいた「小説家小説」についての論文は、再校も終えて掲載誌ができあがってくるのを待っている段階。
掲載誌は勤務先の紀要『文学・芸術・文化』となった。こちらのリポジトリで公開しているので、掲載される27巻2号もそのうちネットでも読めるようになるはず。

なお、これまでの研究と差別化し、また対象としている小説の特徴をより明らかに示すものとして、回りくどくはあるが「小説家についての小説」という言葉を使うことにした。
いや、本当に回りくどいタイトルで申し訳ない。




この次は森田思軒について考えてみる予定。
以前から森田思軒と内田魯庵の翻訳・小説におけるメディア性・エンサイクロペディア性を取り上げてみようと思っていたので、久々に1880年代、さらに1890年代について論じることになるだろう。
posted by kuwabara at 21:59| 大阪 ☀| Comment(0) | 小説家小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする