8月10日のエントリーでふれていた「教員と生徒の問答形式になっている読解にかかわる本」についてだが、内容は普通だったので特に書くことは無い。
ふれたいのは問答形式の有効性についてである。

高校二年生の生徒AとB二人が先生のところに来る場面から始まる。この二人は同著者の以前の書籍から引き続いて登場するキャラクタである。
いや、キャラクタというほどキャラが立ってはいない。

生徒A 先生! 質問があります。前のように教えてもらえませんか?
先生 「前のように」って、どういうこと?
生徒B 以前、国語を学ぶ理由について聞きました。今度も、何と言うか、少し大きな質問なのです。根本的な質問と言ってもよいかもしれません。前のように、時間を取って話をしていただけると助かります。
先生 根本的な……? 大きな質問?何の話だろう?
生徒A Bと「国語」という教科について話していたのですが、「国語」ではよく「読解」とか、「読解力」とか言われますよね。「国語」の学力があるというのは、「読解力」があるということと近似だと思うのですが、いかがでしょう?
2-3頁
生徒二人は敬体、先生は常体で話すことで区別をしているが、生徒二人についてはあまり違いが無い。いくらか言葉が堅い(「近似だと思う」とか)が、二人でやりとりをしているとこんな感じで常体になる。
生徒B 言っていること、分かる気がします。論理的な文章、たとえば評論文を読むことで読者に起きる変化が、実用的な文章では全くと言っていいほど起きませんしね。
生徒A えつ、B、どういうこと? 何言っているの?
生徒B たぶんAも同じことを思ったはずだよ。
評論を読んでいるときは、いろいろ思ったり考えたりしたでしょ。自分の場合はどうなのかとか、自分の振り返りにもなったし、社会を見直すことにもなったし、想像力が時間軸を動くことも経験した、そうでしょ。そして、物事に対する見方が変わるきっかけになるような評論もあるんだろうなと想像もできた。
生徒A ああ、そういうこと!? 確かにね。人生観と言うと大げさだけど、自分が持っている世界観って、これでいいのかなというくらいのことは思った。いや、思わなければいけないということはないんだけど、結局自分の考えでいいや、ってなってもいいのだけど、きっと優れた評論って、読者に揺さぶりをかけてくるのだろうなとは思ったね。
101-102頁
AとBが入れ替わってもわからないかもしれない。どちらかというと、Aの方が知識があって、Bの方は知識は少ないが理解力が劣っているわけではない、という区別はありそうだ。
生徒B じゃあ、どこにあるのですか?
先生 分からない? 君たちの頭の中に蓄積されている、さまざまな知識・情報、さまざまな物事同士の関係、説得の論理、話の筋道、文脈、コンテキスト……、そういう道具があるからグラフを読み解くことが可能になっていると思う。
生徒B あっ、先生、話の腰を折って申し訳ないのですが、コンテキストって何ですか? 何度か聞いたような気がするのですが、よく分かりません。Aはどう?
生徒A 前に先生が何回かロにしたよね、文脈とも。私、調べてみた。コンテクストとも言うらしいよ。文脈、前後関係、事情、背景、状況などの意味を持つ英単語。最近より聞くのは何でだろうと思って調べたんだけど、ITの分野でよく使われているようだよ。
生徒B 文脈と言うと、文章の流れという感じだけど、それよりはずいぶん多くの意味を力バーしているんだね。
134-135頁
あと、口調からすると「女性」的で、やはり国語に興味を持つかしこいのは男子より女子というジェンダー圧力がかかっているようにも読める。もちろん、「何回かロにしたよね、文脈とも。私、調べてみた」という話し方をする男子生徒がいたとしても全然かまわないわけだが。
『作者のひみつ(仮)』改はわざとくだけた口調を使っているが、どのくらい効果的なのだろうか、一度公開したところも読み直す必要がありそうだ。
posted by kuwabara at 16:22| 大阪 ☁|
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作者のひみつ
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