2019年08月23日

自由のレイヤと禁忌のレイヤ

『1980年代』の終盤を読んでいたら、社会の異なる側面がレイヤとして重なり合って共存しているというようなメタファが出てきていた。

編著者2人と高橋源一郎との鼎談「文学・カタカナ・資本主義」より。

成田 今だったら、セキュリティの問題が完全にそうなっています。監視カメラは絶えずぼくたちを監視し、ぼくたちは不断に監視されていて窮屈なはずなんだけれど、そのカメラによって犯人が映っているなどと、逆転ー転倒が平気でまかり通っている。
高橋 みんな望んで抑圧されようとしてるんですよ、もはや。
斎藤 ほんとですよね。抑圧されたいんだよね。
高橋 その転換点ですよね。豊かになるっていうことは自由になるってことじゃないですか。その裏で抑圧が見えなくなるっていうことでもある。資本主義自体は変わっていないから、搾取はされているはずなのに、少なくとも目に見える搾取じゃなくなったとき疑似的な自由を感じて、 いわば父がみんないなくなったんですよね。
斎藤 そういうことで言うと、八〇年代はまだ目に見える抑圧がとれたばっかりだから自由で楽しいんですね。
高橋 そうそう。自由感があるよね。
斎藤 そのあとになるとある種日常化していき、経済が悪くなっていったりすると……
高橋 もう一回抑圧が再開されているんじゃないかと思っても、 見えないから。
成田 だから、江藤淳の『自由と禁忌』は今までの延長でその問題を考えようとしたけれど、そうはいかなくて……
斎藤 『自由と禁忌』 ってそう思うといいタイトル。
成田 まったくこの通りに、ことが進行しているように江藤には見えたのですね。
斎藤 この通りですよ。
成田 しかし、いまや禁忌は自由と対立するのではなくて、自由の中に禁忌が取り込まれてしまっている。
高橋 そのほうがややこしいですよね。
成田 ややこしいですよね。自ら進んで禁忌を求めるという倒錯が、さっきの監視カメラのように起こってきています。
364-365頁


自由と抑圧、自由と禁忌が対立するのではなく同じ事象の中に重なり合っているというのは、当然天皇・皇室についても起こっているわけである。
彼らについて語るだけではなく、もちろん彼ら自身も。
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2019年08月22日

イベント化しオカルト化する天皇交替

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1990年の新聞・雑誌を見る前に、歴史学の観点から記述されたものを確認してみた。

「なにもしてない」で、「即位式そのものには明治以後の新しい部分が多かったらしい。」という記述があるのだが、この事典の「柳田国男」の項目(原武史執筆)によると、「ひそかに書かれた「大嘗祭に関する所感」の中で,柳田は即位礼と大嘗祭という性格の違う2つの儀礼が続けて行われたことを鋭く批判」しているという。その理由は「秘儀である大嘗祭」が「即位礼から続くお祭り騒ぎの最中に行われ」「原始の形式」(たとえば「物忌み」)を守っていないことである。

「お祭り騒ぎ」というのは、天皇の交替が国家・国民を巻きこむイベントとして短期間に、関心を失われない、飽きられないうちに行われる必要があったことを突いているのだろう。即位礼から数か月後に大嘗祭というやり方では、スピード感が無いということである。

ただ「即位式(礼)と大嘗祭」(高木博志執筆)という項目によると即位式や大嘗祭が重視されない時代や、大嘗祭自体が行われなかったり、そもそも「灌頂」を伴う神仏習合的なものだったりもしたので、「原始の形式」という言葉自体が彼が批判していた人々とは異なるフィクションに基づいたものだったということがわかる。

その大嘗祭も一応何をしているのか公開されているわけではないので、隠されることで特別なものではあり続けている。
メディア・イベントと「秘儀」が同時に行うことで、天皇の二つの層を同時に機能させることができるのである。
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2019年08月21日

天皇と共に亡くなった人たち

昨日裕仁天皇の死にはふれてなさそうと書いた『1980年代』だが、中盤の平野啓一郎×斎藤美奈子×成田龍一「地方・フェイク・へるめす」(初出『文藝』2015年夏号)まで読んだら、出てきた。

成田 平野さんは、「昭和の終わった日」を覚えていますか 。
平野 はい。実はその年、祖父が亡くなったんです。天皇の死とわりと近い時期でした。祖父はビルマに戦争に行って帰ってきた人だったんです。僕にとっての戦争体験はほとんど祖父から聞いた話でし た。その祖父が亡くなって、昭和天皇が亡くなって、自分の中で昭和が終わった。それは少年ながら感じていましたね。
成田 平野さんの中に、戦争経験の伝承があるということになりますね。記億の中で、大きな位置を占めていましたか。
平野 ありますね。僕が子どもの頃には、特攻隊の話よりも、『ビルマの竪琴』とか、ジャングルの中で餓死して……というような話が今よりももっと描かれていた。
(209頁)


あくまでも個人としての裕仁の死についての言及ではある。この後、亡くなった祖父と大岡昇平の共通点という話も211頁に出てくるのだが、大岡昇平も死後発表された原稿で天皇が病床にいることを「おいたわしい」と言っていたが、これも現人神ではないただの人として扱ったものである。

しかし、メディアの扱いはそうではなくて、という風にもっていく予定で、たとえば当時の新聞の記事を参照せねばならない。
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2019年08月20日

西暦区分の優位性

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1980年代 (河出ブックス) [ 斎藤美奈子 ]

読み始めたが、裕仁天皇の病気と死の過程について言及した論は無さそう。やはり西暦で区分すると、1988年と1989年の間に生じた事態は薄まるのだろうか。

ただ、反・原発の話は冒頭の鼎談にも出ているが、終末的な幻想(迷信)が蔓延っていたことで関連づけられそう。

大澤真幸がずっと言っている1970年代後半から1995年は「虚構の時代」という主張自体は、虚構の種類がそれ以前・それ以後で違うだけでは、と思っているが、種類の違いを言うのに「迷信」という言葉を使うことはできるかもしれない。
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2019年08月19日

迷信としての天皇制

「なにもしてない」を論じた論文、疋田雅昭「逃走あるいは溶解する境界――笙野頼子「なにもしていない」をめぐって―― 」(『明星大学研究紀要-人文学部』第 54 号 2018 年 3 月)を読んだ。

ここで「即位式」 に対して「八王子旧バイパス」周辺が警戒地域にあたっているのは、昭和天皇が埋葬 される武蔵野陵墓地が、高尾駅から一・五キロほど北上したあたり、国道二十号線と 中央高速道路の間に位置しているからである。このバイパスは、宇都木町に至るまで の国道十六号線のそれに当たるので、まさに重要な警戒地域だったのである。


このように一昨日ふれた武蔵野陵についての言及もあるが、なにしろ小説発表から四半世紀以上経って書かれた論文なので、微妙な近過去がいかに現在と異なっているかを説明せねばならなかったりするのであった。

こちらの関心にかかわることでいうなら、次のような「なにもしてない」の記述が引用されていたのがハッとさせられた。

霊という文化に刃物やお経という文化がよく効いたりするところが我ながらマヌケだとは思ったのだが、自分の知らない心の底の方で、コントロールの出来ない迷信がうごめいている状態には興味が湧いたのだった。外界に手が出ない分内 面に行った。


語り手「私」の「心の底」に「迷信」があるだけでなく、彼女が「接触性湿疹」を病んでいた同じ時に日本も天皇という「迷信」が跳梁していた訳である。

この論文では「即位式」がどれだけ巨大なメディア・イベントであったのかについて言及し、どのように当時の状況を「なにもしてない」が批判しているかを論じているが、さらにイベントとして消費されつつ「迷信」としか言いようのない、神の子孫としての天皇という言説が自明のこととして社会に侵食したということも合わせて考えねばならない。。

「即位の礼」は、昭和三年以来、六二年ぶり。予算規模こそ、「昭和」の一六二四万 円(一九八九年との差を勘案しておよそ二二〇億円)と「平成」の六九億円は大きな差 であるが、その分テレビによる全国中継による視聴者の数は、「昭和」のパレードを 直接見に来た一一〇万人を遙かに凌駕した。
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2019年08月18日

「燃えあがる緑の木」とオウム真理教との関係?

「「燃えあがる緑の木」の教会」についてオウム真理教との関係で語られることが多いと書いたが、その一例である尾崎真理子による大江健三郎のインタビュー『大江健三郎 作家自身を語る』(新潮社、2007年)には次のようなやりとりがある。

 ―『洪水はわが魂に及び』は連合赤軍事件、『燃えあがる緑の木』三部作はオウム真理教事件をまるで予告したような側面の強い小説でしたが、どうしてそのような予知的な主題が大江さんの中で湧きあがってきたのでしょう?

 きみには、予知能力があるんじゃないか、そして不幸なことについては実際それが起ってしまうようじゃないか、と親しい友人にカラカワレルことはありますが、その能力がないことは自分で知っています(笑)。自分に対してのみならず、他人についてもそういう力がありうるとは信じていない。
 一つの問題をずっと考え続ける、自分自身の個人的な手がかりを通じて、それこそ十年問毎日考え続ける。そうすると何となく、自分がずっと考えていまに至っているその考え方の勢いで、いくらか今より前に出て行くことがある。それが私の、想像力というものの核心をなすものだという思いはあります。小説家は自分自身がずうっと考え詰めて現時点まで来て、そこからぽっといくらか前に出ることを書くものだと、そんなふうに考えてはいる。そのようにしていままで小説を書いてきました。それが近い未来に起こってしまうことと重なる、ということは、時にありうるでしょう。


よく読むと、二つの小説とその直後にあった事件について関係があるとはこの回答では言っていない。というか、言っていないが、そうとらえさせるように誘導しているようにも読める。

この前の箇所では、オウム真理教が出てくるのだが、それも自身の小説に直接反映したものとは語っていないのだった。

(前略)私がいつも感じたのは、大きい宗教……本当にわれわれの全体を掬い取ってくれるような、ある時代のキリスト教のような、ある時代の仏教でもいいのですが、そういう大きい宗教があるところと、それがないところでは、すっかり違う! という嘆息のようなものでした。日本でも、全人口の一パーセントのキリスト教徒はいられる。かつ文化的にはずっと大きい仕事をされていますが、仏教をふくめ、日本にはいま、大きい宗教というべきものはない、と私は考えています。
 (略)
 そして私は、このセルフメイク、自分の力で何とか自分自身を作り出そうという考え方、自分の力で歴史を作るという考え方は、現代日本の多くの若者にも現に見える態度であって、その一番過激な典型が、学生運動家の生き方ではないだろうかと考えた。そのなかで傷ついて、行き詰まっている人たちが、救いを求める際、日本では大きい既成宗教がないとすれば、たとえばオウム真理教のような新しい教団が、強い吸引力を持つのではないか、と。そのような青年たちがひとつのグループを作り、悲劇が起こり別れて行く、というのがこの三部作の主題の流れです。


現実で起こった運動・事件と、自身の小説に登場した集団は同じ基盤に立っている、と、ここも微妙に関係があるかのように語りつつ、関係があるとは明言していないのだった。

「日本にはいま、大きい宗教というべきものはない、と私は考えています」というのは、改元・天皇の交替の際に、天皇への強い崇拝ということを感じてしまったのを否認したのではないか、という推測も可能だが、それは言い過ぎだ、ということに今はしておこう。

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2019年08月17日

「なにもしてない」における天皇

三日前にふれた『笙野頼子 虚空の戦死』を読んでいると、当然参考にできるところと、叩き台にできてしまうオヤオヤというところがあるのだった。

 この小説では「接触性湿疹」 と「天皇即位式」とが見方によっては隠喩的関係として、じつに効果的に働いている。「接触性湿疹」の悪化は、日ごろ世間と接触せず、またこれまで ずっと世間から受け容れられないできた「私」の生活が、その非接触のピークに達したときに現れる。「天皇」 はもちろん、その遠い世間や社会のさらに奥深い閉ざされた対極で「ナニモシテナイ」存在であって、そういう「天皇」 一家との偶然のニア・ミスは、「私」の非接触生活の極限との、また皮肉な対照的事件となっている。
(93頁)


たとえば「なにもしてない」を論じた章のこの引用の前半は使えるのだが、後半の天皇が「「ナニモシテナイ」存在」であるというのは認識がぬるいだろう。もちろん、政治に関われないという意味では「シテイナイ」のだが、天皇がどれだけ人前に出て「象徴」としての機能を果たしてきたのか、ということを考えねばならない。
逆に、メディアに頻繁に登場し、本当は様々なことをしているのに「シテナイ」と思いこまれている存在という意味で語り手「私」と天皇とはよく似ているのである。

 皇居を中心とした首都圏から留保的に外へ離れた八王子という土地に「私」が住んでいるということも、 この作品の一貫した"距離"の取りかたと交響している。「ナニモシテナイ」両極の主体を軸にして、「内ーと「外ーが反転した世界が、そこからは見えてくる。
(94頁)


ここでは八王子には昭和天皇を埋葬した武蔵野陵があることにふれなくてはならないところである(もしかしたら「留保的に」というのはその件に関してなのかもしれないが)。実際「前にも大物がひとつあったが、あれの時などは家のすぐそばを通るというので随分不思議だった。」という記述は、1989年2月24日の「大喪の礼」のことを指しているはずだ。

詳細は論文に書く予定。

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2019年08月16日

譲位のパロディ

天皇の交替、譲位についての儀式について調べていると、そのオカルトっぷりに正直呆れる。
で、大江健三郎「「救い主」が殴られるまで」(1993年)で描かれたおよそ稚拙としか言いようのない「ギー兄さん」の名前の継承が、天皇の譲位のパロディになっているというアイディアにいたった。

新興宗教を描いているということで、既にこの時期盛んに活動していたオウム真理教との関連で考えられたりもする「「燃えあがる緑の木」の教会」だが、実際は皇室とそれを尊崇したり、また反発したりする日本人との関係で書かれているのではないか。

連合赤軍との関連で語られがちな「洪水はわが魂に及び」(1973年)の「自由航海団」が、実は三島由紀夫率いる「楯の会」のパロディとしても読めるように、一つだけの見方に限定する必要は全く無いのである。
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2019年08月15日

オカルトと現実

一昨日書いた天皇という存在のレイヤ性について、「なにもしてない」を読み直したところ、次のような記述があった。「接触性湿疹をこじらせた」語り手「私」は家にこもってテレビで「即位の礼」を見る。

 スイッチを付けると即位の礼の中継をしていてナンダコレガアッタノカ、とふいに元気になった。皇室信者ではないがこの関係は見る。前にも大物がひとつあったが、あれの時などは家のすぐそばを通るというので随分不思議だった。どの行事も幻想と現実が交錯しているようでついつい見た。だが気になるのはその感触だけで具体的な方面にはむしろ違和感しかなかった。長くて退屈だろうとは思うのだが、後からニュースというのは気にいらなかった。現にしているところを同時進行で見、現実にその場にいるような錯覚を持ちたかった。それをするというので三連休になり、医者も休みだ、というと、それが国家的行事で、私がこの国のコクミンなのだというなまなましい感触が強くなった。


詳細はまた論文で論じることになるが、「幻想と現実」の二つの層が様々な形で一つの存在の表面で重なり合っていることが繰り返し記述されている。
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2019年08月14日

日本社会と天皇を取り上げる

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参考文献として上記の本を読んだら、当然のこととして「なにもしていない」が天皇を主題とした小説として論じられていた。
うまく利用したいところだが、どのくらい新見を出していけるのか、メディアとか世界のレイヤとかかなと思うのだが、どうなるだろうか。
posted by kuwabara at 20:26| 大阪 ☁| Comment(0) | 戦後文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする